■石原都知事の「一分の魂」-東北関東大地震「天罰」発言

石原都知事が東北関東大地震に関して、「津波をうまく利用して『我欲』を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言した。
全文を読んでないので印象しかいえないが、石原慎太郎の思想の文脈でみれば、理解できないことはない。

やはりこの近代の科学主義と戦後の私的利益の最大化を価値とするモダニズム(戦後原理)に対する反発であろう。
右翼は「あるべき日本」という仮象を実体化して、架空の理念に回帰するからである。
いわばないモノねだりであり、利益追求社会を乗り越える原理を見出しているわけではないが、とりあえず現状批判の梃子だけは持ちうるからである。

しかし、戦後の「我欲」を自家薬籠中の物として、貧しい石原家から作家として成功し、政治家石原慎太郎に転身できたのは、当の本人ではないか。
戦後の活力とは、戦前の極度の官僚統制原理の滅私奉公から、個人の利益と幸福の最大化を原理とする自由と民主主義社会への転換であった。そこに保障されたものは身分制の残滓による社会階層の固定化から、社会的対流の促進と厚い中間層の現出であった。
佐野眞一の著作によれば、石原家は湘南のイメージと伴にお金持ちの印象があるが、もともとは貧しかった。貧しい石原慎太郎が、東京都知事にまで立身出世できたのは、とりもなおさず戦後原理である「我欲」が肯定されているためである。石原兄弟が羨望の眼差しで見られたのもその原理を無言に受け入れていた世間・戦後大衆が存在したからであろう。

そういう意味で、石原知事に、「我欲」だという資格はあるのか?
言うにしてもタイミングが悪いし、どこに向ってモノ申したのかが解らない発言だった。
ただし、石原知事は被災者へは「気の毒である」との言及もしていたと報じられているから、文脈からすれば被害者を侮辱したものでもないことが判る。しかし知事嫌いには、ここぞと揚げ足をとる絶好のネタであった。

石原の発言が、いくらか言い当てていることがあるとすれば、その後の東電福島原発事故である。30キロ以内の住民は放射能汚染を余儀なくされて被害者の立場になっているわけだが、周辺自治体には建設と引き換えに政官学財の利権派から、莫大な金が振興策名目でわたっているはずである。(「はずである」と書いたのは資料を確認しているわけではないので、一般的な手法として同じとみていいだろう、という意味である。そうでなければ、福島原発周辺自治体へは予め謝っておく。)

そうして原発誘致の自治体の市長・議会を懐柔して、反対派を押さえ込んできた。
もちろん賢明な少数派が長い持続的な反対運動もしてきた。

しかし一般的な構図としては、そうした「うまい汁」を住民が享受してきた、という背景において石原の言わんとした「我欲」への指摘は、日本人全体の問題として「一分の魂」があるともいえるだろう。

住民の生命と財産を明らかに犠牲にする「原発思想」は、生産力至上主義に基づいていて、企業の利益効率だけが優先され、それに尻尾をふる一部大衆 の存在なくして現実化されえない。そこには確かに「我欲」が行動原理として支配している。

だが注意しなければいけないのは、石原知事が言うように、全ての大衆がそうであったわけでもない。私的利益の追求を肯定しつつも、同時に「公」の原理をどう作るかという問題提起もあったのであり、そしてそれは今も思考され続けている。

石原知事の考える「公」の理念だけが正しいわけではない。
石原知事の「公」の喪失の指摘は「一分の魂」を認めるが、いまのような仮象の「あるべき日本人」を実体化するような発想では、ただのアナクロニズムとして害悪以外ではない。