論争の流儀ー吉本隆明の「根拠」に学ぶ

「一つの共同性、組織性を帯びたものから批判される、けんかを売られるという場合には、ぼくはかならず目には眼にという鉄則を行使するわけです。
つまり共同性というものには、けっして個人性、個人の思想を抹殺することはできないという原理がぼくにはあるんですよ。」


これは吉本隆明の「どこに思想の根拠をおくか」のなかのことばだ。
ここの共同性というのは、党派性といっても同じだ。

吉本は戦後のほとんどの論争に関係しているため、論争好きだとか、口汚く相手をやっつけて全戦全勝のため、そうした表面的な印象だけで嫌うひともいるようだ。
しかし本人は自分から批判したことは一度もないという。確かに。すべてが相手からの言いがかりに応えて返り討ちにしている。

後年これらの論争の経緯を振り返り次のように述べている。
個人と個人の論争なら、その状況や相手を見極めながらやるかやらないか決めるのですが、相手が共同性(党派性)や組織の場合は、必ず反論するのだと。そこには気分ではなく吉本の原型ともいえるたしかな思想の根拠があるのだ。

日本のファシズム運動で吉本ら戦中派が多大な戦争犠牲者と引き換えに獲得した理念は、組織や党派の権力による個人の思想や生活心情を根拠もなく批判したり排除したりすることは、最大の不正義ということなのだ。
個人の思想を組織や党派がひねり潰そうとしてもできない、またそうさせてはいけないという絶対的確信である。

ファシズムはこれらとは逆で、ひとつの意思へイデオロギーや法や銃剣で全体性への強要をするのだ。
しかも肝心なことは、権力者だけではない。われわれの隣人が米びつの底まで監視しあいながら個人の自由を徹頭徹尾しばり、全体性への服従をひいる「関係性の網」をかぶせるのである。

同時に必ず民族や同胞を排外し差別することで、本来頭のなかの空虚な表象でしかない概念を実体化し、人間的自然を奪うのである。

もちろん今はむかしのような単純な形をとらない。もっと巧妙で、マスコミや学校や広告などを使った世間の「空気」を醸成し、自由な考えを金縛りにし、思考停止になるようにした上で、一定の主観的錯誤である「支配ー被支配者」のイデオロギーを、自らの欲望として受容する形をとっていく。
受容する本人にも分からない。

わたしが、戦後理念の切断を橋下徹などの若い政治家にみて危惧するのは、保守も革新もともに論争の基盤として持っていたものが無くなって、何でもありが当たり前みたいになっているけど、それは危ういよね、と思うからだ。

内田樹が、昔は自民党の政治家も財界人もほとんどが通過儀礼のようにマルクスを読んで「大人」になった。今それがなくなって、「大人」がいなくなったことがすべての分野をおかしくしているという意味のことをどこかで言っていたが、なるほどと合点がいった。

ここでの「大人」という意味は、社会というものが人間で構成する限り、弱い立場の人々や無駄と思われることが付随し、それがあることによって全体が守られるのだという生物学的なリアリズムである。

話を戻すと、民主主義はまだるっこしいけど、過渡期に入った時代はよけいにじっくり毒を吐きながら、ホンモノとはなにか?眼を凝らして見ていくことが問われてはいないか?

ホンモノを見分ける方法とは、敗戦によってファシズム運動でこりごりしたよという庶民の生活実感であり、それらを繰り込んだ思想でふるいにかけることではないのか?すなわち吉本の方法論だ。

わたしは、この吉本隆明の思想を受容し、自民党どころかセクト内ゲバ(党派が個人の肉体を殺す)にも、小沢一郎冤罪事件の正義のはずの検察官僚や民主党右派にも批判を加えてきた。

こういう当たり前の考えが当たり前でなくなっていくようなので、若者向けにちょっとメモしてみた。
わたしのような初老の世代には、当たり前のことだけど、どうも橋下徹や前原誠二のような少し若い世代には改めていうべきことのように思った。
憂慮すべき時代だ。