『「六曜集41号」鑑賞』転載。
至高著
「六曜集」をみていこう。なぜ「六曜集」か。「自選集」は形のできた同人の句、もう腐されてなんぼの世界だ、わが道をゆけばいいということだ。
七十年空爆のなく赤とんぼ 玉石宗夫
七十年戦なき世の夏の空 田中晴子
いくさ無き国震わせる蝉時雨 羽賀一恵
戦後70年の年に、ふと感慨を詠んだ句。直截でよい。確かに戦争も空爆も日本にはなかったが、沖縄から飛び立った米兵がベトナムを空爆した。ベトナムに派遣された空母「エンタープライズ」は核搭載のまま佐世保に入港した。日本は兵站基地となり、横田からは年間70万トンのジェット燃料を国鉄貨車が満載し、連日都心を通って艦船に積み込まれた。王子野戦病院は負傷兵で溢れ、連日地域住民と三派全学連・反戦青年委員会が包囲し、戦争反対闘争を続けた。日本企業は66年から71年の6年間に、戦争特需として60億ドルを得た。朝鮮戦争に続き二度目のベトナム戦争特需で日本は高度成長を維持した。日本の平和と繁栄は、アジア民族抑圧の戦争への加担と血を啜ることで達成したものである。日本人は加害意識をとうとう持つこともなく、70年間戦争がなくてよかったとお目出度いことをいう。これらの句は日本に空爆や戦争がなくてよかったなーと読み取っては不十分であるということ。なお「いくさ」は「戦争」と書く方がよい。六林男は「いくさ」は排した。「いくさ」の語感では総力戦の近代国家間戦争を表現できないという理由である。
列島の平和の隙を台風過ぐ 佐藤富美子
「平和の隙」は暗喩で、軍事的隙(2016年度防衛費予算過去最高5兆4000億円)より国民の平和意識の劣化とも読める。構えずにこういうテーマに向かう俳人のいることが、六林男門の貴重さだ。
暗闇に友の手が舞う風の盆 大門嗣二
暗闇では手は見えない。暗闇を安易に使うなと六林男は戒めた。この次の句の「暗闇に時間溶け込む風の盆」はしっくりくる。「暗闇」も「時間」もモノとして措定されているから景として立つ。
一日の所業を印す背中の汗 神田ししとう
広辞苑では「所業」は「しわざ」「ふるまい」とあり、ただの行為ではない。背後に工まれた意図を隠しているようだ。この措辞が生きた。ただ「背中」は「背」一字で「せな」の方がよくないか。
台風来し家に結束生まれけり 喜多より子
脆弱な戸建の家がほとんどであった、その事実を超えて昭和という時代を描けているといえばいい過ぎか。形のできた句に仕上がっている。昭和のガタピシいう雨戸、近くの川の水が浸水しないか、そんなことを家族で力を合わせて防いだのである。懐かしいふるさとの実家の記憶。
朝顔の地を這う自由止められぬ 谷千重
「地を這う」ときは、決して快調のときではない。地を這いずり回って不全を脱出したり、光明を見ようとするときだ。そのときもがく自由はだれにも止められぬ。あるいは朝顔は上へ伸びることを常とするが、地を這ったっていいではないか、どこへ伸びようが朝顔の勝手だろう、とも読める。
コスモスの術中に陥る風である 綿原芳美
「術中に陥る」のが何の事だか解らない。事実として判明しているのは「コスモスの風」であり、「術中」はそれとは別に仕掛けられたものだろう。しかしコスモスの喩によって、可憐さが仕掛ける「術中」が妖しくエロスを帯びた危険な匂いを立ち上らせる。なにげない句だが周到な計算を感じる。綿原氏はチャレンジ精神旺盛でたまに解らない句を詠むがこれは成功している。
赤錆や希硫酸槽蚯蚓鳴く 岩田進
つまらない情緒を一切排した新興俳句を彷彿とさせる佳句である。モノの持つ力を十全に引き出した。小説でいえば新感覚派に近い。
絆とは足枷の類秋の声 有田美香
秀句である。東日本大震災の折、「絆」が喧伝された。「絆」の掛け声で責任主体の東電や行政への批判を回避させる作用に働いた。マスコミは金子みすずの詩を使ったCМで「絆」を美しく謳いあげて、同調圧力のサブリミナルを発揮した。被害/加害の関係をうやむやにし、とにかく「みんな復興へ手を繋ごう」、ごちゃごちゃ言うやつは非国民だと指弾する同調圧力の大合唱である。結果未だに一五万人が避難生活のまま家に帰ることができていない。「絆」とは、批判を封じた同調圧力のまさに形を変えた足枷の類なのだ。
ただ下五の「秋の声」は動くのではないか、甘さを感じる。