■江里昭彦氏の『パンの耳』がいい−『左庭』4号より

わたしのような俳句一般が好きでない者は、あまり人さまの鑑賞をしているゆとりはない。普通の俳人の鑑賞などは余程余裕のあるひとのすることで、わたしのように自己体験に拘って細い道の俳句を歩んでいると、俳句一般は俳人一般に鑑賞しておもらいなさいな、と呟いてしまうのだ。

つまりわたしがわざわざ鑑賞しなくても、いくらでも理解できるひとがいらっしゃいますよ、ということである。

テーマにしてもレトリックにしても、誰にでも鑑賞して貰おうとすると、いきおい解りやすさの中央値を目がけざるを得なくなる。

中央値付近は、誰もが句意を理解でき、語彙も万人が日常的に使うものでないといけない、というこになってくる。
こうして似たりよったりの俳句が作られては忘れられていくのである。


他方、鈴木六林男のように戦争ばっかり詠んでいると、戦争そのものが忘れられ理解できなくなってくると、解らない俳句といわれ始めて、しまいに俳句自体がダメでたいした俳人じゃないだろうと忘れられていく。


事実、戦争に関わる例句が挙げられる場合でも、ここ数年露出は激減している。
むしろ新興俳句俳人のものだったり、数からすれば少ないはずの金子兜太だったりする。なんで兜太だ?と思っても、存命の俳人に媚びておいた方が何かとお得だろうと、思うのか思わないのか?わたしは知らない。


こういうリスクを抱え、万人受けしない「細い道俳人」は、自分と似たひとをみるととても嬉しくなって、なんとかこの「細い道俳人」を理解してあげたいと肩入れしてしまう。


その一人が江里昭彦氏である。
勿論、江里氏は俳人一般にも通用している俳人でもあるから、ただの「細い道俳人」ではない。


それでも、彼の俳句のレトリックの基底からに香り立つものを本当に理解できている俳人はどれほどいるだろうか。
俳人より文学者や哲学者の方が理解度は深いのじゃないだろうか。


何より、時代への鋭敏な感受性、同時代への批評精神、それは現在に胚胎された近代日本全てを射程にした歴史意識とでもいうものであり、確固とした学的認識を伴っている。


だから、わたしのような奇矯な俳句は、江里氏だからこそ批評の俎上に乗せることができ、しかも正確に句意の分析をしていただけるのである。


江里氏の筆になると、わたしの句は生き生きとして歴史の断面を照射し始める。
まさに、「批評は創造である」。


少し話しがずれたが、『左庭』14号の「盲腸がある天使」は、そんな江里氏の「細い道俳人」の面目躍如たる佳句である。


  ミラノに霧  わたくしに静脈注射

  朔北の潮かぜ王冠さえ曇る

  潮の色なんども変えて鴉片船

  着飾るわれは城郭焼きし者の裔(すえ)

  弔旗もて風速測るならわしと


十句中この五句を抜き出した。他にも佳句は当然あるが、これらの句意と解釈をキチット展開しようとすると、おばちゃん俳人ではそう簡単ではないだろう。


もちろん、「好きなようには語ることはできる」が。
しかし江里氏が韜晦した戦略に届くかどうかというと、わたしにも自信はない。
ただかろうじて、それ程江里氏の俳句は軽いものではないのだよ、ということだけは嗅ぎつけているといえようか。


今回ご恵送賜った中に、一冊だけ4号(2005,3,31発行)が含まれていて、「パンの耳」がある。珠玉のエッセイである。


こういう微妙な心理を、小気味よく造形する文章力は、俳人では三鬼に匹敵するだろう。
短文なので、全文を掲載する。


    パンの耳
                     江里昭彦

 パンの耳が好きで、ときどき買う。あのむっちりした歯応えと香ばしい味が好きなのだ。通常なら二五〇円から三五〇円する食パンとほぼ同量のものが、五〇円から百円の安値で手に入るのだから、得した気分にもなる。


 でも、−と考えることがある。捨てるよりは安値でも売ったほうがまし、といった扱いのバンの耳を買うとき、別に気おくれやひけめを感じないのは、私が確固とした定収入で暮らしているからだろう。


退職している歳ではないし、身なりもこざっぱりしているので、生活に困窮している様子には見えないはずだ。よしんば、みみっちいとまわりの目に映っても、私は経済的に安定しているという自信で、そんな視線を撥ねかえすことができる。


そこで、平気でパンの耳をたびたび店員の前にもっていけるのだろう。


 だから、問題は、私が定収入を失ったときである。
そのとき、いままでどおりひるまず臆せず、パンの耳をかいつづけるだろうか。
切りつめた暮らしをしていると思われたくない、急に面子を気にするのではなかろうか。


好きで買うのに、自意識が体裁をとり繕って、こころがぎくしゃくするのではあるまいか。定収入を失うと、さまざまな精神的な支柱もぐらつきそうな予感がして、面白くない。その時分までにパンの耳に飽いておれば、ちょうどいいのだけれど。

この不安心理は、失職が人間のアイデンティを破壊するのではないか、という優れた社会批評を孕んでいる。


事実、新自由主義=小泉構造改革によつて、金の切れ目が縁の切れ目という過酷な「底の抜けた社会」(宮台真司)に陥った。


江里氏のこんな優しさに満ちた何気ないエッセイにも、ちゃんと硬派な戦略が仕込まれているのである。