俳誌「『六曜no.16』−自選集」鑑賞(2008,9,10発行)

この衆院選政権交代へ向けた、わたしなりのネット言論へのコミットは初めての経験だった。
この経験で、望んだ政権交代も実現し、長く自民党一党支配しか知らなかったわたしには、初めての国民の力による議会制民主主義の一歩が進めたな、という実感でもあった。


しかし、この自分の中の政治的緊張は、俳句を遠ざけみすぼらしいものにしていった。
残念ながら俳句は、「人間の存在」や「世界の全体性」を教えてはくれない。
俳句に埋没していったとき、戦争を避け得なかった戦前戦中の俳人達と同じテツを踏む、という脅迫観念から逃れられない。


さて、年収300万円を切った勤労者が40%に達した時代の俳句なしい俳人はどう身を処したらいいのか?
とりあえず、最も金のかからない方法を選択するしか成り立たない。
ここでも団塊の世代が、この難問の尖兵として課題を負わされている。定年から年金受給までの5年間をどう乗り切るか?


以上のような俳句作家の内在的な危機と外在的な困難に挟撃されて、六林男師が口癖のように言っていた「俳句は青年と老人の文芸」ということさえも不確かになってきた。

この困難さの中で、「六曜」諸氏の作品に触れるたび奮い立たされる。
とりあえず、書けるところまで書こうと。

    * 

黒南風や髪きりし身のおぼつかな   大道寺将司

薄紫陽花鞠を造らず萎えにけり    大道寺将司

この二句は大道寺将司の作品である。
一句目は、たしかに髪を切ったあとの爽やかではあるが、どことなくスウスウした感じは心もとない。これを「おぼつかな」と身心一体の表現にしたところに成功がある。
二句目は、鞠が造れず萎えていく風情に自己を投影しているのだが、娑婆で活躍できていれば、大道寺ほどの能力があれば一角の人物になっていただろう。
率直な句ではあるが、大道寺が詠むとき、このような軽い解説を超えた意味をもって迫ってくる。

げじげじや無実の罪で裁かれし    大道寺将司

これも自身の立場を詠んだものだろうか。死刑という国家による殺人は許されるか、という重い問題はあるのだが、本人は「政治行為は無実」だと確信しているのだろうか。本意は不明である。今度の千葉法務大臣は死刑制度廃止議連に属し、会長は金融相の亀井静香である。句友としては是非早期に死刑制度廃止を実現して欲しいと思う。
そして、大道寺の罪は思想的に裁かねばならない。


多佳子忌の葉裏の白く吹かれおり   大城戸晴美

多佳子忌は五月二十九日。昭和三十八年二月大阪回生病院へ入院。肝臓・胆のう癌で死去。
誓子の写生構成の影響のもとに、理知的で且女情的な振幅のある作品が多い。「女流」俳人といわれる最後の世代といってよい。
わたしは後期作品もいいが、初期の静謐な非情で理知的構成の句が好きだ。
「月光にいのち死にゆくひとと寝る」、「月光に一つの椅子を置きかふる」。

大城戸は女性として深く多佳子に共鳴しているのだろう。女情の激しさや妖しさを俳句に刻み込んで逝った多佳子は、後世でどれほどの重量として作品が受容されているか知るよしもない。しかし、大城戸の中に重く受容されていればこそ、偉大さに今はただただ慄きながら多佳子の時代を思うのである。「葉裏の白く吹かれおり」という措辞は、多佳子に届かない今の俳人たちの虚しさ、多佳子を求めて彷徨う漂白の心性を、まさに多佳子流に即物的にして非情に詠みきったものである。
他に「初夏や土鳩の胸の光おる」、「両翼に夜を溜め蛾の動かざり」もいい。「火蛾」の方が佳くないか?



早乙女や畦の歪みに逆らえず    河村 勲

河村氏の句碑が建ったとの話だが、お祝い申します。もうボチボチ引退ですかな?と冗談を言ってみる。これは通過点で今後のご研鑽を期待します。

掲句は、早乙女というもう死語に近い上五がやや古めかしい印象を与えているが、この早乙女の処女性の暗示が、世俗の歪みに逆らえないという含意として成功している。


シャワー迸る瀬戸際を乗り越えて  玉石 宗夫

迸るは、「ほとばしる」と読む。なにかに躓き、自身の立場は瀬戸際に立たされたが、危機一髪乗り越えることができた。このシャワーは肉体を軽快に打って、明るい夏の夜を迸っている。
「荒れし世の純白として沙羅の花」を筆頭に予定調和のみえみえの句が多いが、掲句のような句を期待したい。


育ちつつ柩に入る菊若葉    喜多より子

素直に読みきった佳句。「育ちつつ」は書かれていないが、葬送される主体としての子供を立ち上げてくる。文法的には菊若葉に掛けられているのだが、俳句の見事な統辞技法が、葬送される者を明示することに成功している。


教室の木枠の窓や楠若葉    芝野 和子

佳句かというと難しい。しかし木枠の窓がいきていて、歴史のある学校の窓の<内>と<外>を、すなわちいまの学校の抱える問題を暗示して、その脱構築へ導かれてゆく。
ちなみに、デリダの「脱構築」は建築用語からきている。窓や扉を押し開けて向こう側へ出ると<内部>と<外部>という区別そのものはなくなってしまう。こうした公理における内部と外部の両義性、決定不可能性を窓や扉はもっている。俳壇に蔓延するデリダ言語論の俗流理解は差異論とともに厳密に読み直されなければならない。


定位置の雛の隙間すこしずつ   佐藤富美子

文句なしにこの一句。雛の句は多くあるが、雛自体ではなく、置かれた距離に着眼したものはない。


考えの一つ聞きたし葱坊主   長尾 房子
疑問が湧いてくる。何を考えているのか?ここには誰かも何の事かも書いてないが、ありありと情景がみえる。具体的なものは何も書かれていないが、作者の気持を寸劇のように提示してくれている。ベテランの書く力を見せ付けている。
なお、「一つ」はこの場合六林男風に言えば「ひとつ」の方がいい。
また厳密には「聞く」は「訊く」がいいだろう。


ジョハリの窓、秘密の窓に螢くる  綿原 芳美

相変わらず散文調の句が目立つが、今回はそれに成功している句は見当たらない。必ずしも散文調をダメだとは思わないしむしろいつも実験的な言葉のチャレンジに敬意を払っている。しかし成功する率は少ない。掲句は、「秘密の窓」がわからない。
一句目のイケメンやメタボもどうか、難しいところだ。俗語による更新が俳諧の源ではあるとしても、ライトバースがなかなか心に響かず残っていかないことは一考してみる価値はあるように思う。六林男師なら、外語の短縮には神経質になるはずだ。


墓石を決めて立夏の雨上がる   西 順子

霊園に影を大きく夏鴉      西 順子

肩の力の抜けた佳句である。とりたてて技巧をこらしていないが、力強さがある。作者の日常のひとこまだが、死に向き合う人間存在を、抒情に流れず書き留める力はさすがベテランだ。
墓石を作る行為は、この世に生きた証を後世に残し、超越的なものへと繋がろうとする永遠への欲望である。こうした欲動を捉えて、ハイディガーは人間を死への存在と規定した。これを踏まえてラカンは常識や社会の規範を超えた倫理に測って生きていくことを唱えた。


さつき満開この手離さば男死ぬ   石川日出子

秀句である。さつきと死ぬの取り合わせは絶妙である。男なんぞは所詮長年妻に飼育されているようなものだ。その手を離されたら、もう命を絶たれたも同然。特に老後は。


国論じ共に夏痩せ定年期    出口 善子

戦いの昔の記憶枇杷に傷    出口 善子

こういう時事俳句を散文調に陥らず韻文として書ききる力は六林男師に繋がるものである。伝統はその内部で更新されて伝統を守りきれるわけだが、何を守り何を更新するか、それは偏に俳人の言語美にかかっている。

出口選の「六曜集」まで手がまわらないのでこれで終わりにします。
一点だけ指摘すれば、出口代表の手が入っているだけ自選集より佳句が並んでいる人が見受けられるが、自選は何でも好きなように書けばいいということではないだろう。自選が共同の統辞法に沿っていることが踏まえられていなければならず、それでこその「自選集」であるはずである。
そのように言うことによってわたしの自戒としておく。