映画『ゲッペルスと私』の恐怖感

ゲッペルスと私」を観た。監督は、クリスティアン・クレーネス他。
これは観ておかないと書物ではない時代としてのナチスが捉えられない。
私とは、若きポムゼルというゲッペルスの秘書をした特に政治好きでもない普通の女性のことだ。

ナチスが社会に浸透し、政権をとり、戦争に突入し、ヒトラーゲッペルスの家族ごとの自殺によって敗戦を迎える、その時代のごく普通の市民がナチ党員となり、ゲッペルスの秘書になった、その時の見聞きしたことの証言だ。

映画は、彼女のモノローグに沿って、その言葉の間に各種の資料的映像やニュース映像が挟み込まれていく。暗闇の館は、一気にゲッペルスの時代に包まれる。

「若い人は、あの時代に生きていたら何かしたなどというが、あの時代、体制から誰も逃れることはできなかった」。
あの頃のドイツは、全体が厳しかった。父親は暴力を振るってもいいと思っていたし、それも一人ではなく連帯責任だといって、一人のミスを全員の仕置きにして暴力をふるった。社会全体が今より不自由だった」。

「私は政治に全く関心はなく、恋人に演説会に連れていかれたことがあったが、もうこういうことは止めてと言ったくらいだった。ごく普通の政治に無関心な、愚か者だった」。

ユダヤの親友エヴァとは、ゲッペルスの事務所に勤めるようになってから、来ないでと言うと彼女もあそこなら私は行かないと言った。一度郊外に引っ越したエヴァを訪ねるとひどく貧しい暮らしをしていた。パンを持って行ってあげればよかったと後悔した」。「戦後エヴァを探したら、アウシュヴィッツで死亡した記録があった」。

「私は悪いことは何もしていないわ。ドイツ国民が全体が悪いことをしたというならそれは私も含めて悪かったと思うし責任を感じなければいけない。ああいう政権を支持したのはドイツ国民であったことは確かなことだから。しかし私は悪くはない、ゲッベルスの事務所でタイピストをしただけよ」。

「収容所らしきものがはあったことは知っていたわ、しかしあんなことが行われていたなんて全くしらなかった。終戦後知ったにすぎない」。

ゲッペルスは、とても紳士的で温厚な人だった。一度だけ激しく誰かに怒っていたことがあったが、いつも穏やかで、清潔で爪はきれいに手入れしていたし、仕立てのよい高給な背広を着ていた。子どもたち(娘)もよくしつけられて礼儀正しいこたちだった」。

ゲッペルスは、普段は物静な人だったが、いったん演説をすると人が変わったように激しい演説をした、それが信じられなかった」。

「戦争をする最初の頃は、オリンピックもくるからベルリンの街はとても綺麗だった。人々は楽しげで華やかないい時期だった。みんなあの人がそのうち仕事もパンも与えてくれるとおもっていた」。

「どうしてあんなにみんなが興奮し、熱狂したのか、スポーツ宮殿のユーゲントの大集会ではみんな飛び上がって歓声をあげ、たった一人のひとの演説で、どうしてあんなに多くの人たちが熱狂したのか、どう考えてもよく解らない」。

彼女は103才の死の年に語った。69年前の記憶は明晰である。

ごく普通のたいして政治的でもない、小市民的善良な娘が、ナチ党員に大した意識もなしに誘われるままに入党し、こぎれいなオフィスに就職でき、紳士的なゲッペルスを信用し、普通の秘書として働く。本人には特別ナチ党員の活動をしたわけでもなく、熱狂したわけでもない。

しかし、間違いなく親友のユダヤ人を死地に追いやり、ユダヤ虐殺を推進した「体制」の人々の側に身を寄せたことだけははっきりしている。
彼女の快不快や美醜の感性は、「体制」側に引き寄せた。政治的観念ではなく、感性的に虐殺側の立場に立った。

自分は政治のことは知らず愚か者であったと述懐する。

しかしその感受性は、「自分は悪くない」と主体としての人間を拒み続ける。
反省も自己省察も、すなわち知性の機能不全である。
ここが善良な小市民の、眼に見えぬ恐怖を放射する無意識の加害の基だ。

アーレントが指摘するまさに「凡庸な悪」そのものだ。