白井聡『終戦73年…いまだ「支配の否認」から解放されない日本人』


先日は白井聡さんとお会いした。
ちょうど著書の『菊と星条旗』を読んでいた最中なので、その解説をしていただいた。少人数の集まりだったので、質問もできたし、彼の日頃の想い飛び出して面白かった。

壇上から読売のナベツネを褒めたのは白井さんくらいのもので、愉快だった。
野球に関するもので、ソフトバンク孫正義アメリカの野球を批判し、日本の野球を対抗させると宣言したことに、ナベツネが賛意を表して孫のような若い人に託すと述べたエピソードだ。

まあそんな話から、米国隷属が冷戦後根拠を失ったのだが、政府はより強く米国の奴隷を続けるという。はたしてそれしかないのか?

米国は天皇を介して日本人統治の必要を亡くした中では、天皇を敬うという擬態(反共防波堤の構築のため)をしなくなり、直接日本人を自国利益のための収奪対象に切り替えた。

米国の擬態を無意味化したなかで、従来の「戦後国体」を続けようとすると、日本人は実質的統治権力の米国へつながろうとして、天皇を必要としなくなる。

国民統合が崩壊し分断が進行している日本人は、どうするのか?

終戦73年…いまだ「支配の否認」から解放されない日本人
73年前の8月15日。あの日は何だったのであろうか。それは、大多数の日本人にとって「解放の日」として現れた。「聖戦完遂」だの「一億火の玉」だのといったスローガンに共鳴するふりをしながら、みんなもう早くやめたくてたまらなかったのである。あの日、日本人は、絶望的な戦争から、でたらめな軍国主義から、そして「国体」から解放されたのだ。

「国体」とは、天皇が父、臣民が子であると措定した家族的な国家観をもとにした統治のシステムだ。家族の間には支配は存在しないとの建前の下、支配の事実を否認する支配だった。

 しかしながら、われわれは本当に「国体」から解放されたのか。拙著「国体論―菊と星条旗」で論じたことだが、依然、われわれは「支配の否認」という心理構造を内面化したままだ。

 平成最後の1年間は、現代日本社会における「支配の否認」構造を露呈させたという意味で、記憶される年になるだろう。日大アメフト部の暴力タックル事件、ボクシング連盟会長のスキャンダルは、この国の各界の小ボスの行動様式が、神風特攻隊の司令官と完全に同じであることを証明した。彼らは口を揃えて言う。「自分は強制していない」「(若者が)自発的にやったことだ」と。

不条理な支配に対して逆らえない空気の中で、原則的な「権利」「公正」は死に絶える。その典型が、東京医科大学における入試合格点操作事件である。この問題は、性差別問題であると同時に、労働問題である。開業医と勤務医の格差、過剰負担といった多重的な不公正の累積が、女子受験者に対する一律の減点というきわめて差別的な手段によって「解決」されていたわけだ。つまりは、不条理で不公正な構造が存在し、そのことを関係者の誰もが知っていながら、誰もそれを改善しようとせず、そのしわ寄せを不利な立場の者に押しつける。「ほら、みんな大変なんだ。誰かが泣かなきゃならない。わかるだろ?」と。

 こうした状況を支えているものは、奴隷根性だ。不条理に対して沈黙を守り、無権利状態を受忍し、さらにはこれらの不正義に抗議・抵抗する人々を冷笑し、彼らを抑圧することには進んで加勢する。こうした人間は普通、「卑しい」と形容される。

あの戦争当時、日本人はこの恥ずべき状態に落とし込まれた。ある者は進んでそうなり、ある者は無自覚なままそうなり、ある者は強要されてそうなった。8月15日は、かかる状態からの「解放」を意味した。しかし今、われわれは自分たちが解放などされていないという事実に直面している。依然としてわれわれは悪しき「国体」の奴隷にすぎない。われわれは日本社会の破綻という敗戦をもう一度、迎え直しているのである。
(「日刊ゲンダイ2018年8月15日」白井聡政治学者)