ユーミンにたいする批判、白井聡氏への橋下徹の批判はブーメランワッハッハー

白井聡氏の松任谷由実に対する「死んでほしい」発言が炎上している。

目立ちたがり屋の安倍友右翼橋下徹が、「知性」がないとディスっているからだ。

この橋下に賛意のコメントがかなり寄せられたが、くだらなすぎる。

橋下の言う「知性」など、ただアホという俗語に使う意味でしかない。
白井氏が論述する松任谷=安倍批判の「知性」と似て非なるものだ。
もし「知性」がないというそこに問題があるというなら、橋下は、白井氏の『反知性主義論』を読んでいないことを告白しているし、
そもそも松任谷由実の語の厳密な意味で「知性」を問題にして批判したのだから、松任谷の安倍賛美にこそ論評すべきであって、そこはスルーして白井氏にだけ「知性」がない学者だということに、全く別の魂胆があることがうかがえる。
そもそも、これは、「知性」を問題にしたが、白井氏の問題は「表現」の問題であって、焦点はそこにある。
橋下やネトウヨは、得意芸のズラシて攻撃できるところをあげつらっているわけだ。
このレトリックの詐術にはまる劣化左派が大量にいる事も問題だ。
「死んで欲しい」という表現が、本当に死ねとか、殺すぞという意味でないことは少し「知性」と読解力があればわかる事ではないか。
こんなもの日常的に使う表現であり、学者だから慎めという「正義」の準拠を教えて欲しいものだ。
誰だって怒りに任せて、悪罵をなげつけるのが人間だろう。
ましてツイッターなのだ。
誰しも腹が立ったり、期待を裏切られたり、その度合いが激しければ親子でも言い合うし、総理大臣の吉田茂だって国会で「バカ」とののしっている。
そういう感情「表現」が、いじめだとか、差別だとか何を準拠にしているか分からない「空気」でどんどん拡大させたら、若者が不正や不公平にどんどん萎縮して怒りの言葉を発しなくなるし、社会的公正さに鈍感になるし、沈黙するようになるのである。
現実に、橋下徹は日常的にツイッターでは「死ね」とか投げつけているが、これには劣化左派もネトウヨもスルーしているではないか。小生のように橋下を克明にチェックしている者には、どれだけ罵詈雑言を発しているかをよく知っている。
大阪府民はそれをおもろい芸として歓迎しているのだ。
そういう言論表現が一つのトーンとして本人の思想性を形作っている場合が問題で、白井氏の日ごろの言論はそういうものではない。
小生がこれを危惧するのは、維新の会が次の選挙には全国的に立候補者をたてて全国展開に入るだろう。
こうした維新の会のやり口に劣化左派は飲み込まれる可能性があるのである。
事実数年前尤もリベラルな都市吹田市で、東京で右翼で鳴らした山田某が市長について利権の不正がばれて退任した。この時吹田市民は、「改革や威勢よさ」に騙された。戦争で前線に行かず逃げた右翼と同じ威勢良さだ。
先ごろの西垣のりこ議員の安部批判にも、頓珍漢な劣化左派が右翼と唱和して総批判した、挙句に枝野までが謝罪をしたが、こういうソフトスターリニズムの蔓延が、ある局面で右翼とシンクロすることを憂える。
小生は、くだらないネトウヨのディスリにはかかわらない方がいいという高等的な態度はよくないし、放置すると社会のネトウヨを蔓延させる。ネトウヨはほとんど浅薄な普通の若者だから、指摘すれば何人かは「おや?」と思うものだ。根気よく相手をするしかない。
また、劣化左派のソフトスターリスト的言論規制にも与さない。
ひとえに普通の感情表現でディスることを禁句にするなら、社会を捕まえるときに社会を平板なものとして把握する間違いを犯す可能性があるからだ。
白井氏の松任谷由実にたいする批判に共感するし、
表現も落胆と失望を的確に表現したものとしてなんら問題だとは思わない。

(誤解がないようにいっておけば、人間の出自、身体、など自己の意思でどうにもならないものの比喩的表現はタブーであることはいうまでもない)