新井勝喜首相秘書官を批判する、その仕方を批判する!

新井勝喜首相秘書官が更迭。
時代は明かに変わってきてはいる。
外人からすると、日本は比較的人種差別も性的マイノリティー差別も重症ではない、と言われている。
確かに、難民への入管の差別、精神障害者への国民の「無視」という酷い人権侵害以外は、確かにアメリカなどと比べたら緩いのだろう。
それはなんとなくわかる。
新井は、ついついLGBTが問題視される以前の、「無視」の時代に固着したままだったのだろう。
問題は、この件について、自民党細野豪志が、友人が一人でもいればこんな差別発言はでない、と述べて多くのいいねマークがついていることだ。
冗談じゃないよ、体験のない者は、差別発言も理解しずらく許されると言わんばかりではないか。
こういう関係性の問題は、抽象的思考と想像力で、「なぜ差別がいけないのか」、ということが説明できず、体験に依拠しろと言ってる限り、なくならないのだ。
個人的体験は確かに絶対的ではあるが、それは社会の抽象的問題とビジョンの提示にまで高めることが不得手になる。
社会の構成員として、どう他者と関わるべきかという基本的問題を深化せず、個の主観へ還元してしまう。論理的思考を不得手にする底の浅い社会、即ち差別が再生産され続ける社会が放置されるのだ。
平和もしかり、戦争経験してみれば、平和のありがたみが解るー確かではあるが、未体験者の戦争と平和への理解はお粗末なものにとどまり、体験者がいなくなれば、平和のありがたみは誰も知らず、平和への努力もなされなくなるだろう。