戦前右翼活動家には注意が必要だー良心と党派イデオロギイー❣

時々全共闘といっても、同世代人が自称する元全共闘とはどこかズレている、と思う時がある。
私にとっては、新左翼の党派ー特に革共同などは、勝共連合と同列にみなしている点だ。
革命や共産主義を自己規定するか、反共と名乗るか名辞の違いにすぎないとみなしてきた。
イデオロギィー集団が実態で、個々の構成員は道具扱いされる点で同じなのだ。
だから、左翼とジャーナリズムが括ろうが、新左翼党派は特別右翼と違わないとみなしている。
 だから、アプリオリな革命党解体を志向した共産同叛旗派に、いくらかのシンパシーを感じていた程度だ。
私は組織より人だ、という俗的な言い方ができる。
高校時代の体験が多分影響したとこの歳になって思う。
新聞部の友人二人が学校の批判を掲げて部室へ立てこもった。
1966年のことである。
原因は、高校生の地域数校が集まって諸問題を話し合う集会を開こうとしたが、事前に漏れて学校側からストップがかかったためだった。
私は反戦アピール雑誌を発行しており、どう巡り巡ったか、NHKの眼にとまり取材の申し入れがあった。
両者とも、当時の高教委には禁止事項であった。
さて、学校側は処分をめぐって紛糾した。
新聞部の二人は、日ごろ反抗的で態度が悪いとみなされていたこともあって、大勢が停学処分に流れそうになった時、ひとりの教師が起ち上って、滔々と擁護論をぶち上げ未遂であることを以って無罪論を通してしまった。
もう誰も異論を言えもせず、私の問題は俎上から降ろされ、以後発行禁止、取材は断るという処置だけで終わった。
この教師はAといって、小柄で、普段物静な人物であった。
校長と同じくらいの世代で、東大卒、アララギ派歌人であり、B級戦犯で公職復帰を果たした人物であった。
全職員がこの教師には一目置き、労組の若手も何かと頼りにしていたとのことだった。
しかし戦犯の罪状は満鉄調査部の幹部で、右翼活動に加担していたとのことらしい。
どのような組織に関係していたのかいなかったのか、誰もつまびらかなことは知らなかった。
私たちは、あの物静かな教師が、30分滔々と我々のために擁護論をぶってくれたことに驚き、組合教師の中に意外と秩序派がいたことにがっかりした。
世評右翼だとか、あの人は戦犯だったらしよ、などと言われる人物が、生徒の反逆に共感を示し、規則を以って教育を放棄することはまかりならぬと正論を主張した。
このことは、私の決定的な思想形成に作用した。
外在的に、右翼だの左翼だの区分けしたがるが、個々の人間は個々の良心を以って生きていることが思想であって、群れ成した時の個人とはズレているかもしれないと疑って、生身の人間を見ておくこただという方法が身についたように思う。