観ずに想う「代島監督『ゲバルトの杜』雑感

F君(K大院生)、映画の評は横においといて、哲学やってる人にしては尊厳だとかいう話はいかがかな?

「信念対立」はギリシャ以来の一貫した問題です。こんな内ゲバなど、世界史の文脈ではたいしたことはないともいえます。(体験世代としては大した事件ですが)

これは史上では、中世の宗教戦争であり、近代ではフランス革命、そしてスターリニズムの問題なのです。はっきりしていることは、前衛主義=ボリシェビズム/スターリニズムを掲げる限り内在させてきたということ。ですから、鴻上や代島の間違いは、新左翼党派も全共闘の区別もなく、70年学生運動が、以後政治アパシーを招いたという小熊らと同じデマをF君ら後続世代に刷り込んでいく粗雑な「歴史修正主義」です。何の学的エビデンスもありません。日本では共産党結党以来、多々ゲバルトやリンチは常態化してきました。その文脈のなかで描かれないとただの「事件」、「ゴシップ」となります。この内ゲバは、ですから共産党のパロディーに過ぎません。

事実60年安保敗北の総括から、決定的な方向性が全学連解体と共に提起されました。即ち非主流派であった革共同が強固な前衛を創出しようと提起し、共産党以上の組織づくりをしようとします。崩壊した全学連主流派であったブンドから多くの学生が流れました。

この時革共同は当然前衛主義をとったわけです。後に中核派革マル派は分裂して双子の兄弟として近親憎悪を激しくしていきます。

前衛主義は、私だけが唯一革命に最も近い正しさを体現している、他は全て反革命であるという信念を持った運動となります。反革命は殺せー「敵は殺せ」という信念の強さを持った党員が良き革命者としてたたえられる心理と組織体質を生みます。

哲学的課題は、正義とは何か、政治原理における普遍性とは何か、これをしっかり論じられない政治は、もう話にならないという処まできました。サンデルはじめ多くの哲学者の理論が出ました。しかし依然として世界は「信念対立」の殺戮が過激化しています。

間違えば「信念対立」の脱出口は内向きの個的領域でモンモンとするだけでしょう。しかし「信念対立」は、長い歴史的文脈のなかにあり、そのパースペクティブの上でしか解決できません。

映画としての評価はどのようなパースペクティブかは分かりませんので、直接言及しません。ただ熊野寮の中核も革マルも思想的総括派未だにしていません。(のはずです)。全共闘世代にも後続世代にも、これら「信念対立」を哲学的領野での課題としてきた哲学者はいます。(竹田青嗣西研など)ヘーゲル市民社会論、なかでも自由論と人権の相互承認論を押えなければ解答はないでしょう。党派の前衛主義者は、いきなりスターリニズムで革命運動に入り、近代思想の貴重な部分を全く知らない思想的社会的不適合者なのです。「敵は殺せ」というテーゼは広く戦争そのものでもあり、克服すべき課題です。

ということで、映画を観賞しましたら改めて感想を書いてみたいと思います。

Facebookのコメント抜粋より)