旧自民党保守派と共産党野党連合が共闘できる単純な話

ネット界隈では、民進党の態度が煮え切らないと、反安倍政権派から民進党右派へ批判が強まっている。
共産党へのアパシーだとか、野田派が第二自民党だからとか、解釈がいろいろでているが、現象的にはどれも当たっているのだろう。

しかし、原理的にみると、旧自民党の小沢、亀井などが共産党との共闘を進め、共産党大御所不破和夫が手をにぎっている背景は、極めて単純な話なのである。
以下ツイッターのコピー。少し補ったので字数は増えている。

自民党共産党が共闘できる自然な流れは極めて単純。
戦後政治は反共保守と進歩(革新)派はイデオロギー的には対決したが、「現実」を問題にした点で共通している。保守とはアメリカ的大量生産大量消費社会からみて、日本社会の物量の不足という「現実」を改善しようとし、進歩派は社会主義的とアメリカ民主主義的との理想実現のために「現実」を改良しようとした。つまりともに「現実」を見つめ、その改良に向かった。
ただ留意しておくことは、革命派の共産党は、進歩派の戦後民主主義派と共闘している間は「現実」へ向かっているように「見えた」。それは二段階革命論としてのまず西欧型民主主義を実現し共産主義革命を成し遂げる戦略の故であった。

一方安倍政権はそうした「現実」へ向かう思考より、倒錯した復古「幻想」へ。ちょうど共産党が革命「幻想」へ向かうのと同様、彼岸へ政治的着地点をもつため相似形をなして対立する。つまり両者とも「現実」は未来の千年王国実現までは、未来のための操作対象でしかないのである。従って今の「現実」を豊かにするため、「現実」の政治に最終的な政治責任をもとうとせず、党の目標が優先される(共産党は本気で政権を担おうとしたことはなかった)。
結果、現在の「現実」としての国民はしたがって二の次になる。

従ってというべきかただというべきか、共産党は、アメリカを無意識の範型とした旧自民党戦後民主主義派とは、民主主義という一点で共闘できるのである。

以下蛇足だが、それは過去に負の遺産として、60年代後半の学生運動を旧自民党共産党戦後民主主義派が共闘して圧殺したという「実績」をもつ。
アメリカ民主主義が虚構であり、実体化するのは過ちだと主張した「実質的民主主義」を求める学生との違いであった。

「民主主義を守れ」というとき、現状肯定にも現状批判的にも両義的に使われる
ことに注意しておかなくてはならない。
一歩間違えば、限りない抑圧の運動にもなるのである。

戦後の第一期〜第二期とでもいう1970代中頃までの図式を維持する旧自民党と進歩派は根底で矛盾しないのである。