■評論−『書くことの「リアルさ」をめぐって』

かつて痛切に言葉が欲しいと思ったことがあった。
1970年前後、全共闘運動が最高潮に達しつつも、一方で解体に向かう兆しが見え初めていた時期だったように記憶している。つまり普通の学生が主体的に組織していた運動が行き詰まり、マルク主義諸党派の政治決戦路線へ切り替わっていく過程にあった。このときマルクス主義や革命を、マルクス主義党派と同じレベルで信じていなかったわたしは、ノンセクト(党派に属さない一般学生活動家)の各団体が、党派の草刈り場となり、党派のヘルメットを被り火炎瓶を作りはじめた時に、痛切に言葉を欲した。

そこでは、マルクス主義党派の世界同時革命論や世界根拠地論といった一種の<神>の座から吐き出される革命図式は圧倒的な説得力を持っており、ノンセクトのわたしなどには太刀打ちのできない<論理体系>であった。どのような理論もその閉じられた内部では整合性が保たれているからである。それでも何かが違う、自分の感性に照らした時、あるいは日常の活動領域でくりだされるひとつひとつの手触りが違っていることはハッキリしていたように想われた。しかし、結局似たようなマルクス主義のタームを散りばめた言葉でしか語れなかった。この辺の感覚を最近読んだ小阪修平の『思想としての全共闘世代』はよくつかまえており、今までの全共闘ものの中では最も共感できるものだった。次のようにのべている。

批判の言葉は皮袋にもられた酒よろしく、まずは古い用法によって語られる。古い言葉とはここでは戦後民主主義的な用法や古典的なマルクス主義を意味する。これが六十年代末の季節がかかえていた第一のねじれである。この新しく出現した社会(筆者注・高度消費経済社会)への違和感や疎外感がある程度大衆的に共有されていたとして、その感覚とそれを表現することばの間のねじれとしてそれを定義しておきたい。


 そして実際のムードは実存主義であったと言うのである。確かに吉本隆明サルトルカミュランボーがよく読まれていたし、人間主義としての「疎外論」だけの活動家も多かったように思う。

 こうした時代の転換期のねじれの中で、新しく到来しつつある時代を的確に言い当てる言葉が欲しかった、ということになろうか。こうした体験を一度持ってしまうと、俳句を書いていても、どれだけ現実の孕む違和感を剔抉しえているかが気になるのだが、とうにこんな古典的なリアリズムは意味をなさなくなっているのも解っている。ここでいう古典的なリアリズムとは、諸個人の生きがたさや社会に通低した諸矛盾を対象にして、ただの写生や模写ではなく、社会的現実と人間の関係性の変革を迫るような言葉の力と運動のことである。「何を書くかが問われた時代」であったと言い換えてもよい。そこには「真実の人間」、「あるべき本当の社会」といったいわゆる真理の先験的措定による形而上学的な問いが同時に発せられていたともいえる。こうした地平は、後続世代からはダサくて無意味なもので批判の対象でしかなくなるのだが、当時は多くのひとの確信に支えられていた。

 それでは今の「リアルさ」とはなんなのか。既にこの手の問いに対しては何度も語られているのかもしれない。しかし俳句づくりの現場の誤解や混乱を避け、進行している事態を今後批評の俎上に載せていく意味でも自分の手で整理しておきたい。

 
見田宗介は『社会学入門』の中で、新聞掲載の短歌を手がかりにここ数十年の日本人の感覚変容を考察している。
短詩型の変化に著しい変化がみられるのは八〇年代後半からであると言う。少し長いが引用する。

ジャズの音に切り開かれて次々と取り出され行くわれの内臓
福良光良

あかあかとメルトダウンの果てなれば一億ザムザ妖蝶となる      森千代里

 「自分」の不確かさ。「自分」の解体感。「自分」の空洞感。(中略)ここではすべての他者たちもまた、つまり「世界」のリアリティ自体が根こそぎ変身している。

時計屋のすべての時計狂えりきまひるの静かなる多数決        田端益弘

 時間は、すくなくとも近代の人間にとって、世界の存在の最も基礎的なわくぐみのようなものです。カフカよりもっと深い無根拠感。虚構感。というよりも、ヴ−チャル感。(中略)「自分」のふたしかさという感覚は、「世界」のふたしかさという感覚といつも表裏をなしている。

 
と述べて、この「個人」のアイデンティーのあり方と「世界」のリアリティのありかたの空虚と双対的な存立の背後には、人間関係の不確かさ、希薄化、空洞化、無根拠化という時代の実体が存在している、と結論づけている(見田はこの生成メカニズムを鋭く析出しているが、ここでは省く)。


 こうした離人症的ないしは浮遊する諸個人は、一方で極限の共同体であった愛の核家族までもが解体しきっていき、「遊園地化する都市」の中で、漂白された明るい開放感に浸っていることも事実だ。しかしここにある解放感は、かつてのような「連帯」や「あるべき共同体」へ向かう他者に深く関わる喜びではなく、きわめて孤独な共有感覚を欠いたものだといえる。同時に極限の共同体とともに喪失していくものへの「カセクシスの切実」(見田)は、抗議としてのさまざまな神経症を発生させてきた。こうした成熟と喪失のはざまで、諸個人の心性は、対象への働きかけによって、何かを変革しようという言葉のベクトルは生れにくくなった。気鋭の哲学者西研は、<モノ>も<コト>もデーターベース化しており、すべてが等距離に並んだただの風景として存在しているにすぎない、嘗てあったような時代の<先端>への価値信仰はなくなって、個人の嗜好に還元された一種のニヒリズムの円環情況だと言う。時間の感受の仕方までもが何処かで違っているということか。この一種の価値相対主義は、やや強引だが、批評の場では、「テクスト論」や「作者の死」といったポストモダン思想を呼び込んできた心性に通じているといってもよいかもしれない(このことには今回余裕がないので触れない)。余分なことを言えば、詩の意味は散文では叙述しようがない社会の<先端>を詩語としてイメージ化することだとしてきた戦後詩は、詩を詩として成立させるパラダイム自体の危機であり、衰弱が語られるのも無理からぬ話といえる。

 わたしの手元には、若い人の句集や同人誌がないためまた日頃の怠慢も手伝って前掲の短歌に相当する適当な例句を掲げられない。だが、わたしが俳句を始めた九十年代にはもう「いかに書くかの問題だけだ」という言説が飛び交っており、それが最も新しい課題として特に原理的な根拠も明示しきれずに雪崩れていったような印象をもつ。つまり、なぜ俳句に向かうのかという問いはさておいて、修辞的なテクニックやファッションとしての言葉を美的表現としているという構えである。この構えは、古典的な「リアルさ」が、現実への違和感を変革への言葉として構成し、対象と自己変革を伴うムーブメントであったのに対して、現在の「リアルさ」は違和感を違和感のままひとつの風景として映し出す表現技術だといっているに等しい。こうした言説についての秀でた論述は、俳句の側にはなかなか出会えないのだが、短歌について岡部隆志は『言葉の重力』の中で次のように言う。

  日曜画家が風景を描くように、自分の心の違和感を風景画として描くことができる。その場合、絵 に描かれた違和感の風景そのものがリアルであるというより、その絵を通して確かめられる、違和感を風景として見つめるまなざしやそのまなざしを風景画までに仕上げる言葉の技術そのものの氾濫こそが、ここではリアルさそのものなのだ。

 
そして、「表出する担い手に何の影響も与えない」という不思議もしくは苛立ちがある。」と結んでいる。俳句に置き換えて読んでもなんらおかしくないだろう。
 かつて鈴木六林男が「社会性」か「俳句性」かの論争に際して、「『技術の巧拙が問題ではない。俳句には社会性が必要なのである。』といいきってみせた」(仁平勝『俳句の射程』。仁平はこの優れた著書の中で、六林男を社会主義リアリズムで括っているが、少し安易すぎるように思う。留保しておく。)ときの、屈折を言葉に託して未来を切り開くような詩精神は現代の古典ということになろうか。ちなみに六林男は、作句の現場では、一句の中で引っ掛かりをよく指導した。なめらかな音韻をちょっと乱して意味に立ち止まる。それは心的な屈折をいかに表出させるかという技法だったと思う。それに比べて、わたしたちの俳句はなめらかでスピード感に満ちていることか。まるで消費のスピードに遅れまいとしているかのように想えてくる。わたしは、こうした傾向を「ふまじめ」だとか「かるい」だとか嘆いているわけではない。明らかにポストモダン批評に裏打ちされた、理想主義が解体した後のそれなりの必然をもった表現行為であることは認めるからである。しかしそれは何かが不足してはいないか。多くの「日曜俳人」の「うまい俳句」がひとつのファッションとして消費へ鹹め捕らえられていく現代俳句の諸相を、次のフェーズへ転回させていくことははたして不可能なことなのだろうか。

 俳句(近代)の奥行きにある言葉の意味(歴史性)を抜いてゆくことで、俳句も身軽になった。その分俳句にまつわる言語美や作家の理念の所在の問題などからは救抜される。同時にそこでは<無名の大衆>のエートスを吸い上げてきた詩型の危機でもある。 この危機を超えるのではなくて、「原理的に問わない」ということが、現在の俳人の主要な要件だとでもいうように、俳句の風景は拡がっている。

−『辺縁へ』所収、初出『豈』NO.44、2007年3月31日発行−