■新年おめでとうございます。小沢一郎トークで始まる

本年も宜しくお願い申し上げます。


我が家は新聞を取っておらず、またTVも閑に任せてニュースを見るくらいなので、年頭にメディアや評論家がどのようなご託宣を述べていたのか全く知らない。

彼らが何をどう語ろうが肝心なことは、生活者としてのわたしたちは、どのような高踏的な言説も、わたしたちの私的利害と生活感情の快不快を以て洗いなおし、それらの信憑性を得ていくしかない。


わたしたち自身が、無媒介に国家や民族を代表しているわけでないし、他国家や他民族に対峙しているわけでもないだろう。


稚拙だと言われようが、国のことを考えていないといわれようが、わたしたちが国家や民族やあるイデオロギーのために生きているわけではないことは自明のことだからである。


わたしたちが、この社会や国家に参画しコントロール可能だという実感とともに、自分たちの生活が互酬的関係として組み込まれていることが認識できない限り、どのような「ありがたい」「訳知りの」「高踏的言説も」全く意味をなさない。


そんなメディアと隔絶した生活をしているわたしだが、昨夜村上龍主宰の「カンブリア宮殿」?とかいう番組をたまたま観たら、ゲストに小沢一郎が出演していた。
小沢がTVのインタビュー番組に出るのは珍しい。


村上の質問に答えていく形式で進められたが、単純化した質問に明快に答えていて、改めて小沢の基本的な考えが説明されていた。


窮地に立ちながら、何度も持ちこたえてわれわれの前に「バッド・ペニー」として還ってくる執念は、繰り返し語っているように55年体制と冷戦後のポスト日本政治のグランドデザインの現実化ということなのだろう。
個々の具体的政策というよりも、日本の政治風土やシステムの改変への傾斜が強いように感じる。


とはいっても、国民の生活のあらゆる場面にセテフティネツトを張り巡らして、雇用と生活保守をキチットすることが、個人消費を活発化させてGDPを押し上げることが経済対策になると明言していたが、これなども危機と政策がよく解っており、ただの選挙屋や権謀術数の黒幕とはいえない。


民主党は寄り合いではあるが、戦後政治がイデオロギー的対立部分はあつたとしても、結局利益配分において自民党社会党の協働と分業によって安定してきたと考えるわたしなどは、この民主党の寄り合いは「左右」政策対立とその決算、また組織の活性化に結果的有効性をもたらしているようにみえる。


そういう点で、小沢はよく解っているのではないか。
でなければ、この党内並びに連立のアクロバティックな調節弁になりようがない。
敵味方問わず、小沢の政治能力の過大評価と幻想があるといわれるが、ときには政治にはそれも必要であろう。


問題は、鳩山政権がリベラル政権であるような一部での誤認があるが、この基本的には保守改革政権であるため、こうした小沢の政治システムの改革や生活保守に取り組んでいる間はさして心配ない。


問題は、リベラル左派風な外国人参政権憲法九条改定論などのような自民党以上のウルトラ保守政策が「現状変化」の掛け声で安易に提案されてくる場合である。


民主党小沢には、そうした劇薬を内部では矛盾なく抱えているということに対して、国民の側は完全に意識の出遅れがあるように思う。


昨夜のTVでは、そうしたセンシティブな問題は避けられていたが、参院選の勝利の仕方によって、国民はそうした問題を突きつけられることがはっきりしてくるだろう。


端的に言えば、敗戦国として対処したアジア諸国への新たな対処の仕方。
とりあえず、小沢の中国韓国等への対応は小沢なりの仕方で「新米入亜」(寺島実郎)の意気込みだとみなせるが、しっかり見守っていきたいと思う。