民主党代表選-菅総理の自称「市民運動家」は本当か?

民主党党首選での連日の菅総理有利報道は、サポーターへの誘導ではないかと疑問視しているのだが、もし報道の通りであれば、民主党サポーターも例外なく今までの小沢一郎ダーティ報道に洗脳されたB層そのものであり、情けない話である。その部分では残念ながらメディア戦略は成功しているのかもしれない。

一方で民主党内でしっかり落ち着いて仕事をこなしてきた議員の殆どが小沢支持だという点は報じられていない。

ニセメール事件、参院選大敗、官僚抱きつき依存、メディアの「政治と金」批判に寄りかかり大衆迎合する議員、他人の金を追求しながら自分の司法書士の息子には人件費名目で助成金から垂れ流した官房長官、舌鋒鋭く小沢金問題をTVでわめくが、自身が選挙区支部長を務める資金管理団体では暴力団企業舎弟からの政治献金が見られる仕分け人、これらの問題議員がみな菅派支持というのはどうしたことか。

とりわけ暗殺された故石井紘基議員の東京三区の地盤を引き継いだ小宮山議員は、故石井議員の意思を真剣に受け継いでいるのか?すくなくとも小宮山議員は政官財の癒着による金の不正問題にはほとんど取り組まず、党内で政敵を蹴落とすために金問題を利用しているだけだということはハッキリしている。

故石井議員は精力的に本当の闇の部分に手を入れて暴いた実績がある。それゆえ暗殺を招いた。
小宮山議員は安全な場所で、身内の金問題を騒ぎ立てているだけで、それ自体が犯罪でもなにも無いのにあたかも犯罪でもある如きメディアへのリークをするのだが、明らかに頭が混乱している。
党費は幹事長の裁量権の範囲で各議員に配布されるもので、小宮山議員が理想とする一律同額配布が絶対的に正しい正義の配布だなどとはいえない。

どのような組織も、重点政策や目標への資金集中は当たり前であり、その当否が組織の命運を決するのだということは常識ではないか!そこに眼力も責任問題も発生するのであって、不平等配布だから責任問題だなどというのは小学校の学級委員会でしか通用しない理屈である。
このようにまともとは思えない何を政治理念にしているのか解らない議員ばかりが菅派なのだ。

使途不明金があるなら、同じ党内に当時の小沢幹事長も数名の副幹事長もいるのだから問いただして理由をはっきりさせれば済むことである。それをいきなり本当に使途不明金なのかどうかもわからぬままメデイアにリークするやり方は、明らかにマスコミの小沢叩きを利用しようという謀略にほかならない。究明ではなくただ蹴落とすことだけが目的と窺える手法だからだ。

異常という意味で少し小宮山議員に関わりすぎた。

さて新党日本田中康夫議員のブログに、わたしが菅総理の政治家としての基本において疑問視していた点を指摘していたので引用し拡散する。

つまり菅直人という政治家は自己吹聴し巷間言われているような「市民運動家」なのか、という規定の問題である。

この疑問に、菅総理が師としてた故市川房枝議員が答える形で、若き日の菅総理の政治手法を辛らつに批判しているというのである。

この故市川房枝議員とは別の角度からではあるが、わたしが菅総理は当時の概念からすれば「市民運動家」ではないとずっと思っていたことに通じるものがある。

当時というのは1970年前後、市民運動というのはべ平連などの反戦平和、公害闘争の地域住民、主体は農民であるが三里塚空港建設反対、差別問題などシングルイシューへの「市民」の自発的活動をいった。
今のように、巾広く行政委託で金銭援助のあるものまで市民運動などとはいわなかったことに注意しなければいけない。

それらの特色は、直接民主主義を基調として自立した「市民」が既存の政治過程を乗り越えてイクという点がその特色であった。

全共闘派もボルシェビズムを掲げる党派以外のノンセクト活動家であれば、一歩学園を出て一人の市民として公害闘争にでも関われば、それは広い意味で市民運動家ともいえるのである。

従って、全共闘が解体した後、その中から社会人となってシングルイシューの市民活動家、企業内労組活動家、地域反戦青年委員会などの市民運動に多くが流れたのである。

今でも知られているのは小田実鶴見俊輔や共労党などとベ平連を結成してひとつの市民運動のモデルを作る。 或いは他方に水俣公害闘争などがあった。いずれにしても、既存の議会や政治家が採り上げない問題や、議会では解決不能とみなされた問題であった。「市民」の直接行動によって解決するか、または政府へ直訴ないしプレッシャー与えようとした。

従って、市川房枝のクリーンな政治運動などのように、既存の代議制議会に入っていて、代議制民主主義を基調とした場で政治活動をすること自体、市民運動の範疇からはズレていたし、従ってわたしたち活動家の世界では菅直人などの名前は知る由もなかった。彼が広く名を知られるようになつたのは選挙に打って出てからである。

つまり市民運動家だとか全共闘活動家からすると、市川自体が全く既存政治家としてしか映っていなかった。ただの既存政治の選挙運動でしかなかったし、多数決原理でしか進まない議会内改良政策へ収束するものとしか映らなかった。
理念的に直接民主主義は捨象されていたのである。

その市川が菅直人をダメなやつだと批判しているのだから何をかいわんやである。
そして、清貧な市民運動家を他人が評価して言うなら解るが、自分で盛んに吹聴する感覚が人間としていかがなものか、と思うのである。

こういう考えがずっと付きまとって、菅総理市民運動家とメディアに書かれればいつもイライラしてきた。ただの選挙をボランティアで手伝ったというに過ぎない。それも己の目的のために市川房枝の名前を利用した。当時の市民運動とは、似て非なるものなのである。

長くなるので、田中康夫議員の全文を掲載しておく。

「市民活動が権力を手にしたん途端…」

僕の手元に、1992年5月刊行の「復刻 私の国会報告 市川房枝」が有ります。53年〜81年の五期25年間、無所属の参議院議員を務めた市川女史の「簡素なパンフレット」計26冊を、生誕100年記念事業で一括上梓(じょうし)したものです。

「菅氏は昨年(1976年)12月5日の衆議院選挙の際、東京都第7区から無所属候補として立候補した。この時は立候補を内定してから私の応援を求めて来た。彼等の意図は理解するが、衆議院の無所属は賛成できないので推薦応援はしなかった。然(しか)し50万円のカンパと、私の秘書、センター(民主政治をたてなおす市民センター)の職員が手伝えるよう配慮し、『自力で闘いなさい』といった。ところが選挙が始まると、私の名をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをしてくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異っていた」。

その7ヶ月後の参議院選挙に今度は社会市民連合から立候補する菅氏に、「7月10日の参院選挙に対する私の立場」と題して市川女史は、「衆議院で落ちたから参議院に出る、それも無所属が望ましいのに、社会市民連合という政党に参加したのは賛成しがたい」と苦言を呈し、「彼は彼の代表している『参加民主主義をめざす市民の会』の総会で、『会に相談なく、会が参加しているように誤解させた』ことを責められ、退会したと新聞に出ていたが、それはきわめてまづい。彼の大成のために惜しむ次第である」と“正辞”(せいじ)しています。

星霜(せいそう)を経て去る4日、「原点を大事に忘れないでいきたい」と新宿駅西口での街頭演説前、代々木の市川房枝記念会を久方振りに訪れた菅氏は、「政治と浄化を訴えつづけられた市川先生の思いをこれからも大切にしてゆきます」と記名帳に記しました。

「理想なき現実は、ひたすら欲望を追求し、打算と腐敗をつくりだす。私たちが見せつけられているのは・・・市民運動家が権力を手にしたとたん、権力闘争が習い性となってしまった凡庸(ぼんよう)な俗人の顔である」。
その洞察力と筆致力に予(かね)てから一目も二目も置く作家の高村薫女史が既に先月上旬、「AERA」誌の連載で看破していた一節を、文筆に於いても政治に於いても凡俗に過ぎぬ僕は、復誦(ふくしょう)しました。(http://www.nippon-dream.com/

(註)「市民」そのものの概念にはさまざま学説はあるが、ここでは一般表象に限定しておく。