まず本論へ入る前に、今井照容氏(ジャーナリスト・作家)の指摘に反省させられた。
氏は、マスコミに始まって橋下や橋下批判の市民までが、「暴行」であるにもかかわらず「体罰」だというところから問題の掴まえかたが間違っていると批判。一体自殺した少年に何の咎があって罰が与えられたのか? 少年には何の落ち度もなかったはずだと。それを一方的な教師の暴行で死を強制されたのは、「体罰」とよぶこと自体がすでに少年を忌むべき存在として扱っている無意識が教師と同類なのだと断じている。
これは日本人の「忌詞」であって、かつて大東亜戦争の折、マスコミが「敗退」を「転戦」といい、「敗戦」を「終戦」といい、ただの戦死者を「英霊」と祀りあげて国民に虚位の情報を浴びせては国家意思を刷り込んだことに等しい。マスコミは何にも変わっておらず、国民もマスコミの繰り出す「官製用語」に警戒心もなく、素直に時の雰囲気としての支配イデオロギーに洗脳されることに無自覚である。
この今井氏の指摘はジャーナリズムに生きてきた者からの発言として重い。今日からわたしは自殺した少年の死の意味を「体制側」から奪還するために、深く反省して「暴行」という言葉を使うこととした。
さて今回の橋下市長の教委への政治発言は、市立で有る限り当然であり、発言もなく沈黙したら袋だたきだろう。
徹底策を教委にとらせる意図は間違いではない。
しかし批判がでるのは体罰肯定発言とマッチョな今までの教育行政での条例である。
また私に言わせれは、明らかに政治ごっこで50議席も国政へ送り込んだエネルギーは、本来市政に投入すべきもので、明らかに手抜きと言える。
しかし橋下がいくらかでも反省することはいいことで、それ自体をなじっても仕方ない。
むしろこれを契機に、市民側が橋下の悪法見直しへ向かうようなプレゼンスが必要だ。
という観点から、私は教委学校PTAが相変わらず無策のまま、入試を強行し、再び謝罪しただけでうやむやにに日常性を回復させる姿勢を橋下以上にダメだと思う。
この糊塗する事なかれ意識が、日常性へ逃げ込み自らが変わろうとしない意識が橋下を生んでいるという認識に届かなければダメだと思うからだ。
しかし橋下批判派は、鬱憤ばらしをしているだけで、橋下攻撃に集中する愚策だ。
橋下の政治はもちろん批判が必要なのだが、教育には教育行政独自の専門性と内在性があり、すべてを政治問題に還元して論ずるのは過ちである。
まして、問題改善が橋下VS守旧派が教委学校市民という対立構図では勝ち目はない。
個別課題は個別課題の内在的な克服が目指されて、初めて橋下の政治主義が克服されるのである。
全て政治が悪いという思想はスターリニズムを生むし、ハシズムと同根である。
自民党と共産党は一緒、と私はよくいうが、そらは当事者の幸せより、政治主義が最後は全面化し、当該問題は放ったらかしとなるからである。
政治主義の罠に陥る愚は哀しい。