戦争準備着々、とうとうわが家にも自衛官募集のチラシが!

めずらしく筆者としては私事を書くのであるが、その理由は身辺にいよいよ戦争が露出してきたなと実感したためである。

正月気分もおさまらない小正月に、このような自衛官募集チラシがポストに投げ込まれていた。若者の少ない老人世帯が多い住宅地域なのに、無駄だなと思いつつも、それ以上にいまだかつてない自衛隊のチラシがわが家のポストに!

沖縄では、防衛省が役所から個人情報を入手して、募集担当自衛官が戸別訪問をしていたことが問題になったのは、昨年のことである。
八重山毎日新聞http://www.y-mainichi.co.jp/news/27960/

自衛隊法では役所から個人情報の提供を許可しているが、必要外の家族情報まで丸裸になっている。

徴兵制に反対している人たちも、過去の日本軍のような全員赤紙による強制徴用のイメージをもっているがそれは旧い。
現代の徴兵制は、経済徴兵制であり、貧困な若者に特典を付与して「志願制」を装うところに特色がある。

そのためには、一定程度の貧困の若者を作り出していく必要があり、アメリカの政策は日本に移入されていく。
いまやアメリカ以上に勤労者の45%もの非正規労働者と、アメリカの倍の2000社もの派遣会社がそれを支えている。
「自分に合った時間帯に働ける」という名目で、実際は二つも三つもバイト掛け持ちで寝る間も失くしている人たちが増えているのに。

もちろん国家の強制(立法による合法性を装った)徴兵制も併用されるだろう。
すでに二日まえから船員の予備自衛官化が画策され、海員組合が猛反発している。
船員予備自衛官化→http://mainichi.jp/articles/20160130/k00/00m/040/091000c

そんななか昨日市の支援文化活動のひとつ、「哲学カフェ」なるものに参加してみた。
20人ぐらいの老人ばかり、若者は一人という今どきの集いであった。

テーマは「戦争はなぜおきてしまうのか」。

司会者が脱線しないようにリードするのだが、テーマが大きいので好きなことをいってるにすぎないという混乱状態。

戦争が[起きてしまう」という他動的に言い方はおかしい、誰かが起こすものだ、という点では多数が合意。
ひとりひとりがしないように努力すべきだという。

では誰が戦争を仕掛け、大衆はなぜ乗ってしまうのか、そして命をおとして誰が得するのか?はっきりしない、言えない。

戦争もテロもどこで区分けするのか、それでないと論じにくい。

戦争は悪のイメージだが、実は歴史的には戦争したリーダーは英雄扱いされていて、戦争避けようとしたチェンバレンなんかダメ扱い。だから戦争は誰かがしかけるなどではなく、民族のリビドーとカタルシスの発露で必然的に望まれてやるものである。
こんな史実に間違っていることを平気でいっても誰も注意しない。(笑)

殆どの出席者は戦争否定論者なのは、ホットしたが、こういうテーマに自覚的に参加しない大多数の方がどうだろうか、という懐疑は拭えない。

筆者は質の高い論議はこれ以上でないだろうと思ったので中座した。

やはり学識知見と、戦後の論議を踏まえないと、隣のジジイババアの放談にすぎない。

戦争は、とりあえず国家間戦争である。
国際法上交戦権を行使し、宣戦布告したもの、それ以外は紛争、テロと区別される。
近代の国民国家が誕生したとき、自由・平等・人権は普遍的原理として先進国で承認された。
しかし、それに反する国家の戦争による殺人、国家法による犯罪者の死刑による殺人、この二つの殺人は認めた。

それは近代国家の性格を本質で語っているのだが、いまヨーロッパ諸国は、この二つを何とか停止し、新しい国家原理を開いていこうという過程にある。
死刑制度は実質廃止された。

日本は、死刑存置は国民の80%が賛成。
周辺国脅威論から集団的自衛権(集団安保体制ではない)容認、そのため憲法改正論がいまや50%と拮抗している。
それも改正論をいう巷のおっさんおばはんは、自民党改憲案を一度もよんだこともなく(笑)。

近代がいきずまって新しい原理を必死に模索しているのは、戦争を認めた19世紀帝国主義=強盗による富の一国簒奪方式が時代に合わなくなったからだ。

或いは戦争で領土を拡張しても儲かるどころか損をすることが判ったからだ。

高度工業国と原材料国の貿易ではもうからない、高度と中度の工業国同士が一番儲かることがわかった。

軍事的には、原子力潜水艦の核弾道ミサイルが開発され、一切の核爆弾の先制攻撃論が無効化された。
大陸間核弾道ミサイルによる力の優位論はもう古いのだ。先制攻撃は一瞬の差で敵国の国土が破壊できても、原子力潜水艦核ミサイルの登場によって無効となった。大陸間弾道弾で敵国国土を壊滅できたとしても、敵原潜が深く潜行し長期間レーダーから消え、自国近海から核ミサイルを撃ち込まれれば自国も壊滅するためだ。

したがって国家間戦争はもうほとんどできなくなった。
右翼も左派も古典的な戦争イメージだが、一番怖いのは、現実保守派による一部企業と国家官僚による交戦権を行使しない持続的紛争の画策である。
このアメリカの半世紀の戦争方式である。

アメリカ国家予算の3割は軍需関連で担われ、日本の集団的自衛権とともに武器輸出解禁で三菱重工は今年度2兆円の収益を見込まれている。三菱の国産初のジェット機も華々しいニュースになったが、いきなり戦闘機は抵抗があるから、まず旅客機でノウハウを蓄積し、また国民の抵抗感を懐柔していくのである。
あれはエンジン他主要部品はまだすべてアメリカ制で国産では作れない。ボディだけ。みんな騙されている。

いま学校で組体操のけがが問題になって、文科省の大臣と氏家副大臣の見解が分かれている。
氏家副大臣のけがを少ししても息子は誇らしく、見た私はウルウルきた発言で、中止指示は国としてはしないと述べている。

なぜ組体操が問題かというと、けがを防止できていないという子供の保護の問題も当然あるが、本質は戦争が露出しているからである。

かけがいのない個人=子どもが大切だという思想から、ホーリズム(全体性)に支えられた観念に氏家副大臣ほか多くの自己満足の父兄が侵されているからである。
戦争準備の時代には、必ずホーリズムが強化され、人間個々はゴミのような無意味な存在であり、全体性に価値の実在を信じ優先する。
こうした極端に制度化してきたのが伝統的カースト制である。

もちろん日本の天皇ファシズムもそうだ。
あれは昔のことではなく、社会の基底で残されてきた。天皇制をだれも廃止しようと言わない。あれは過去のことだと証拠もなく信じ込んでいる。
同調圧力とは、じつは天皇制のことであるといのは学術的には常識である。

「なぜおこるか」というテーマに還ると、資本の運動にともなう国家利益ということ。国家の中身は多層的人びとで成り立ち、戦争で利益を得る人、死ぬ人に二分される。往って死ぬ人をつくるためには、「みんなが得する」という方が説得力があるし、公共性を装う方が大衆は進んで受容し納得する。
「本当は往く人たちは儲からないよ、往かせる人に多く利益が入るよ」と正直にいってしまうと、往って死ぬ人が納得しない。
そのため不明にするため「全体に価値がある」という考えが必要になるのである。

ベトナム戦争以来、アメリカ国会議員とエリートの子息が戦争にいったのは一人しか記録されていないといわれる。

哲学カフェ参加者も落ち着いて話せば、もっと深みのある意見や知見が披瀝できたかもしれない。
いずれにしても、このようなテーマをみなで合意し参集された方々の、良心と誠実さを評価したい。