詩語はなぜ難しくなりがちなのか―添田馨

詩人の添田馨氏がある人の質問に返した説明です。
簡潔にして平易な説明ですので、忘備録に入れさせていただきます。

コメントありがとうございます。お問いかけの内容にうまく答えられるか不安ですが、いま自分が言える範囲でご回答させて頂きます。あくまで私の個人的な見解です。
「平易」を”意味が取りやすい“と解し、「難しい」を”意味が取りにくい“と解するなら、現代詩のおおきな流れはご指摘のように後者にあるように見えます。しかし「平易」な詩がまったくない訳でもなく、ある詩作品が「平易」であるか「難しい」かは創作者の表現スタイルの相対的な違いということに帰着する問題だろうと思います。
そのうえで、現代の詩の多くが「難しく」見えてしまうのは、使われる言葉の“意味”に加えてそこに言葉の“価値”を付加させようとする動機が働くからだと思ってます。
詩作品はいつの時も創作者の固有の経験から”価値“として産み出されるため、その表現形態もおのずと固有の姿を取ることになります。固有ということは、一義的には他と違うということですから、これまでに無かったような不思議な表現を独自に生みだすことにつながっていったと理解しています。つまりクリエイティブな動機に発した行為であるために、その結果として〝意味のとりにくい〟つまり「難しい」表現となって見えてしまうのではないでしょうか。
詩がこうした性格の芸術表現であるため、「詩と政治」というテーマはとりわけ“難しい”ものになるのは道理です。政治はとにかく多くの人々に訴えなければなりませんからね。そして、分かりやすい言葉でないと多くの人々にアピールすることができません。かつて「郵政民営化」というとても分かりやすいスローガンを繰り返すことで選挙に勝った人がいましたが、原理原則は結局そういうことだと思います。
ただ、一方で詩が政治と接点を持つ場面というものがたしかにある訳でして、それは決して一般化はできないものの、政治的なアピールを詩が完全に手放したということでもないと考えます。あくまで政治的テーマは創作者の固有の創作動機として、さまざまな表現上の工夫を通していまも表現されていると考えます。それがどれだけ多くの人々にアピールするかは未知数ですが。
また「カイロス」については、まだまだ知られていない表象で、今回、私がなかば紹介するような意味も込めて自分の文章の中で使いました。これは詩ではなく詩論の文章のなかでです。ある複合的な精神情況を言い表すのに「カイロス」はぴったりの表象だと思えたからです。なので、「カイロス」を知らない人が読んでも何とか意味とイメージが汲み取れるような書き方をしたつもりです。外来語はひとたび定着すれば日本語となじんだものになり、当たり前に使われるようになります。「カイロス」が果たしてそうなるかどうかは、私には予見できません。
いま私にお答えできるのは、およそこんなところです。
答えになっていなかったとしたら申し訳ございません。
(Facebookより転載、2018.2.26 『政治と詩』カイロスをめぐる論議で)

(参考)河津聖恵論考 http://shikukan.hatenablog.com/entry/2018/02/26/105715