いまとなっては、マルクス主義の革命論より市民社会のガバナンスをどうするか。国家と個人を直接対峙させてしまって、市民社会における日々の生をよりよく生きるための共同性の探求が欠落した。政治革命さえ起こせばすべてハッピーという楽観主義が貫いていた。
おかげで日本は、市民社会の美徳をとは何か、公共哲学はどのようなものとするのかが不毛であった。
あったものは、江戸商人の道徳を明治政府が国民コントロールの梃子に焼き直し、世俗道徳(忍耐・勤勉・家父長制)とした。いまだにまともな公共哲学がない。
これは期せずして、アメリカの個人主義的リベラリズムによる政治で行き着いた格差と貧困、道徳性の解体を結果したなかで、キリスト教保守派が、優勢となってトランプを大統領に押し上げたことに相即する。というか日本が追随しているのか。
リベラル派の困難はこの国家の精神性に応えられない点で、保守反動の浸潤をこれからも許していくだろう。
アメリカ帰りの若手学者が増えているなかでー。