リベラリズムのもたらすものー公共哲学の不足と右派の伸長

アメリプラグマティズムは、軽薄な先入観があって、読まず嫌いであった。
加藤典洋アメリカで鶴見俊輔に師事してから、プラグマティズムは面白いとか言っちゃて、いつの間にやら『思想の科学』の編集に納まっていた。
全共闘世代が、プラグマティズムでもなかろうとその後も思っていた。
しかし、ヂューイはヘーゲルなんだな、アメリカ哲学もヘーゲル、カント、が左派にはたっぷり流れ込んでいる。
いまとなっては、マルクス主義の革命論より市民社会のガバナンスをどうするか。国家と個人を直接対峙させてしまって、市民社会における日々の生をよりよく生きるための共同性の探求が欠落した。政治革命さえ起こせばすべてハッピーという楽観主義が貫いていた。
 私が党派を厳しく批判したのは、人間の総体性を問うているのに、ヴォルシェビズムは課題を政治主義に矮小化するものだったからだ。
おかげで日本は、市民社会の美徳をとは何か、公共哲学はどのようなものとするのかが不毛であった。
あったものは、江戸商人の道徳を明治政府が国民コントロールの梃子に焼き直し、世俗道徳(忍耐・勤勉・家父長制)とした。いまだにまともな公共哲学がない。
自民党日本会議はこの世俗道徳を日本人の精神性として復権させようと拡大してきた。道徳性では非難に値するが統一教会は、家父長制維持で自民党と同期した程度で、大した政治的影響はない。
日本会議こそが80年代以後の市民社会での公共性を提示し、左派を解体しつつある。つまり国民は国家ー市民社会での精神性を潜在的に求めていたのである。
これは期せずして、アメリカの個人主義リベラリズムによる政治で行き着いた格差と貧困、道徳性の解体を結果したなかで、キリスト教保守派が、優勢となってトランプを大統領に押し上げたことに相即する。というか日本が追随しているのか。
リベラル派の困難はこの国家の精神性に応えられない点で、保守反動の浸潤をこれからも許していくだろう。
リベラリズムが、国家と市民社会の善悪、美徳、精神性を欠落する原因を考えるべきだ。
アメリカ帰りの若手学者が増えているなかでー。