内田樹「『1Q84』BOOK1・2」(村上春樹)書評を読む

週間文春6月18日掲載分より。期待していたほどのボリュームはなく、一ページのみ。


予想していた通り、また内田がうまいこと説明しているわ。
文学者ではなく哲学者の書評なので、わたしにもストンと腑に落ちる解説になっている。大方の文学者は、思想潮流をきちっと押さえてないので、ただの鑑賞文でしかなかったり、ひとりよがりの何言ってんだか解らないデマだったりするのだが、流石に内田は違う。


サビ?の部分だけ紹介する。

何かが世界で起きているすべてのことを専一的に「マニピュレート」しているという信憑を持つ社会集団は(形は違っても)「父」(*1)によって支配されている。
村上春樹の文学的冒険はこのような「父の支配」から逃れ出ることを一貫してめざしてきた。(略)自分が現にこのような人間であることの責任を「父」に遡及させない。この「父に対する自制と禁欲」が村上文学の文体と思想の骨格部分を、言い換えれば、「村上文学の世界性」をかたちづくっている。

しかし今回の作品には、微妙な変化がみられ、「小さな(弱い)父」たちの集合表象である「リトル・ピープル」の生息する世界から「子ども」たちを救出しなければならないという厄介で困難な行程を指し示している。


「父」のいる世界、そこから「父抜きの世界」へ至る開示への困難な課題に、内田は村上春樹が「回答の可能性を示したように思われる。」と結んでいる。


なーるほど、そういうことなのね、内田クン。
では読んでみよう、といかないのがわたしの偏屈なところ。なぜか?金がないから文庫本になってから買って読みますわ。図書館も当分予約殺到だろうし、知り合いはみんな村上おもろくないって言う連中ばかりだし。


(*1)ここでいう「父」というのは、共同体内の絶対神のこと。
   ヘーゲル流に言えば絶対精神。内田は、世界の秩序を制定し、
   意味を確定する「聖なる天蓋」のこと、と解説している。


「父」のいる世界とは、とりあえず歴史を動かす絶対精神としての階級意識もなくなって、ニヒリズム相対主義)の時代といえようか。

或いは、見えざる「システム」の世界といえようか。この宙に浮いた世界を脱してふたたび共同性の成熟した環を設定しうるのか?そういう課題だろうと読み取りました。


なんだ、もう読まなくてもいいか…。


【追記】他の書評もアップされているものを読んだが、一応プロと思われる人だちのものだけであるが、よく解らない書評ですね。翻訳家とか文学者の書評ってどうしてこうピンボケなの?どうでもいいことばっかりですね。

【追記】仰天、内田樹が6月13日に結婚式をあげていた!
    もう還暦だろう?大丈夫か?多分若い教え子でも手篭めにしたんじゃないの?
    ともあれお祝いを言っとこう。まあこのブログ見ることないだろうけど。