サンデープロジェクトの見当違い

今朝のサンプロを観た。

とうとう、田原やコメンテイターやクルーの見当違いがハッキリした、というより田原と高野某?とかいったか、ふたりのやりとりで、この番組が小泉・竹中売国路線を明確に支持し、サポーターであったことをポロリと白状してしまっていた。


曰く、改革は正しかったのだが、その後の福田安倍麻生が中途半端にしてしまい、セーフティネットを設けなかったために改革自体が問題となってしまった、と言うのだ。


何をかいわんやである。
いまさら竹中平蔵の必死の弁解を、「天下の田原」が代弁してどうするのだ。われわれはそんな結論のために延々ともっともらしいサンプロを見せられていたのか?


もちろん、小泉政権時代からわたしはこの新自由主義はオカシイといい続けてきたのだが、それでも田原が反対派を登場させながら、それなりに小泉同伴者を鋭く質問してみたりしていたから、田原流の内股膏薬的手法はベタベタ引っ付きながらホンネを引き出すためのものだろうかとも思っていた。


しかし、どうもそうではなく、やはり間違いなくひとつの「見解」をもって、輿論を洗脳し誘導しているようだ。


要するに、今日の民主党岡田幹事長ひとりへの集中攻撃は、自公の指摘を田原かデフォルメするばかりか、野党にも客観性を印象つけるために水を向けて、民主党公約がデタラメだという印象操作をおこなっていた。


考えてみれば、植草一秀氏や多くのひとたちが、田原の鵺のような手法を批判してきたが、それでもわたしは田原の個人的な書き物はそれ程違和感なく読んでおり、ハズレと思うものは五に一つぐらいだ。
何故これほどテレビでは田原はダメになってしまうのだろうか?
やはり、朝テレというスポンサーや政府許認可権者で成り立っている既得権益層への迎合ということなのか?


田原は、参加者達に、視聴者はこの次の選挙はどこにしようかと眼を皿にしてみていますから、云々と脅迫するようにCMの折に叫んでいたが、わたしはこんな田原のTVごときをみて投票しはしない。うぬぼれも程ほどにしといてくれと呟くばかりだ。


田原を批判してきた人からすれば今更ということだろうが、TVが無意識のうちに何かを刷り込んでいるとするなら、何度でも注意喚起の意味で批判を書き続ける必要がありそうだ。