昨日法務委員会を中断して、参院本会議でいきなり強硬採決に入った。多数派であれば、どうしようが決議されるから仕方ない、とあきらめるわけにはいかなかった。なにしろ現代の治安維持法になりかねないし、政府説明は出鱈目ばかりであったからだ。
法案の中身については、多くの識者が知見を提供してくれているから、詳細は省く。
肝心な点は、近代法の原則、すなわち内面の自由に立ち入ってこれを例外もなく監視、捜索する自由を警察当局に与えるてんである。
近代法は外形主義、つまり行為主義ともいって犯罪が外形的に認められて初めて捜査対象になる、という極めて個人の自由を保障した考えである。妄想の段階では罪に問わない。
法学部に学んだら最重要テーマである。しかしそれさえも知らない多くの人は、戦前の歴史事実=治安維持法をもって想起し、事例として学ぶことになる。
問題は、ここにある。
政府が一般人は関係ない、犯罪集団が対象であるからだと説明されると、国民はなんとなく納得してしまっている。
戦前のことで、今そんなことはあり得ないよという言説を庶民が形作る。民主主義の時代にと言うが、昭和初期まで大正リベラリズムの時代が間違いなくあり、銀座をマルクス主義関係の書物を小脇に抱えてあるくのがモダンとしてかっこよく見えた時代があったのだ。
今、果たしてそうか。
今でも辺野古基地反対リーダーの老翁は、反対示威行為を「組織した」という事実をもって、理由もなく半年以上にわたる長期拘束をうけ、国連人権委から政府へ非難勧告が出された。
岐阜県の若き某市長は、業者と部下の「口裏合わせ」で、虚言をもって収賄罪の冤罪に陥れられ係争中である。
もっとも共謀罪によって解りやすい事例は、さいたま市公民館による俳句表現弾圧事件である。「デモ」を詠んだ句だという理由で、政治的中立に逸脱すると掲載してきた図書館報を発行中止にした。これも現在係争中である。
これらに共謀罪は、お墨付きを与え、さらに冤罪範囲を拡大していく恐れがある。
治安維持法は俳句弾圧事件をでっち上げたことは有名であるが、このさいたま市公民館弾圧事件は、共謀罪によって表現の自由どころかさまざまの「異議申し立て」会合や組織を一網打尽にし、反対意思を抹殺できる武器をさらに権力に与えることになった。
弾圧に協力した「ホトトギス」虚子の伝統俳句協会には望むべくもないが、句会を楽しんでいる多くの俳人や現代俳句協会も俳人協会も反対性声明を出した形跡がない。
ここまでは反対派の論法で述べたが、個人的見解を付け加えておく。
共謀罪を保持している先進国にもテロは防げず、テロは断続的に起きている。これは何を意味するかというと、事前拘束が不徹底だからだ。近代法が成立する条件を時代が突き崩し、それだけでは治安が保てなくなったということも意味している。
逆にそれは近代法が許容してきた死刑も戦争もいまや不法であるという先進国国民が思うに至っている事実をもたらしている。(日本人は「土人」なのでまだまだ)時代は進んでいるのである。
本気でテロを治安機関と法だけで取り締まろうとすると、事前着手段階で潰さざるを得ない。それは先進国が共謀罪を成立させた合理的理由である。そのためには警察に大きな捜査権限を与えることを国民が合意したということも言える。
それを合理的に合意した根拠は、日本と違って冤罪に対するチェック機能と、個人の権力からの侵害を防止する配慮の有り無しの違いだろうと思っている。つまり司法の国民への配慮と、国民の捜査・司法当局への信頼度の問題である。
事前拘束には、どうしても見えない「内面」を捜査側が推定することになるため、証拠なき推測であるかぎり間違いも多々あることを前提にしておかないと冤罪となる。
・逮捕時と取り調べの弁護士立ち合いを義務化する。
・取り調べは全編可視化ビデオ収録する。
・誤認拘束と疑いが晴れた場合は、即時解放し、謝罪と慰謝料を支払う。
・万一謀議を認定しても、犯罪の阻止を目的に厳密化し、拘束期間の短期限定化
を厳密に実施する。
などの、既存刑訴法とは違う考えを導入すること。
日本のように、捜査司法当局も国民の意識も現状のようでは、とても共謀罪などまともな合目的的法案になったとしても、危なくて廃棄するしかない。
政権交代はそのためにも絶対に必要なのである。
おっと、7月以降はこんな風に書くと共謀罪に引っかかるので、読者の方々はご注意ください。
違う表現で呼びかけましょう。