麻生景気対策−団塊世代を無視した15兆円

麻生政権の景気浮揚策をざっとみたまま、多忙で検討しきれていない。印象だけでいえば、民主党へのクリンチであり、団塊世代を無視したバラマキである。


クリンチというのは、ほとんど民主党のバラマキをパクッテいる。ただバラマキというのは、経済理論のいろはを無視したGDPを押し上げることに貢献しない支出を言う。
ただ民主党の経済政策が全てバラマキではないから誤解しないように。


公明党案の交付金は、原理論としてはバラマキではない。これは消費刺激によって全体に行き渡ることで、先進資本主義国のGDPの半分が消費に負っていることを考えれば当然のことである。
今回は、貧困層の増大と逼迫で、消費に回らず借金返済と預貯金にまわるため、額が少なすぎて効果は期待できないだろう。
(これはかつてMIXIに縷々展開したのでここでは省く)


バラマキかどうかは経済の専門家が多く語っているのでわたしが拙い説明をするまでもない。
ここでは個人の生活感覚とその対策の背景にある思考を問題にしている。


問題は相変わらず、大企業に金を投入して元気になれば自然に金は中小企業や個人や貧乏人に回るという発想である。
そんなやり方は、さんざんやってきて、結局このテイタラクではないか。


銀行も信用保証協会も、何処吹く風で貸し渋りをし続け、個人相手のローンは高い金利をむしりとっていくだろう。


大企業が元気になったって、労働分配率は以前より悪化し、小泉時代の馬鹿げた会社は株主のものとかいって配当を上げるから、従業員なんか何もいいメをしていない。その傾向はこの対策でなんにも変わらないだろう。


おまけに、アメリカのやっているクレジット評価方式の導入で、おかしな個人の格付けをされて、日本人の築き上げてきた共同体内の人格的信用評価からクレジット会社の借金返済信用格付けに制御されるだろう。
つまり、小泉時代に「市場はあるが社会などというものはない」(サッチャー)といった新自由主義の極め付きのような「人格などはない
、いかにクレジットカードローンを使いこなすかだけだ」といった個人の生活過程が全てクレジット会社にコントロールされるだろう。


話がずれた、戻す。
なにを問題にしているかというと、今年金支給を65歳に引き上げられた大多数の団塊世代は定年退職後失職と収入減に困憊している。
そのもっとも選挙票田である団塊の世代に対して、なんの手当てもしていない。
この恨みは必ずや自民党敗退と政権交代へ直結するし、またさせたいと思う。


団塊世代が後続世代に疎まれていることは一理あるし、わたしもひとくくりにされたくない。
とくに今官僚になったり、大企業のトップに昇りつめた連中は若かりし頃世直しや大学改革なんぞに敵対して利己的欲望に走った小汚い人格ばかりだからだ。


しかし、今日本の未曾有の経済社会的危機は、この団塊世代が存在していただけでGDPを押し上げてきた消費動向が急激に下降し、消費の単位である消費者そのものの圧倒的減少に原因があるということである。


現に団塊世代マーケティング論は破綻し、企業はバラ色の団塊マーケティングを撤収している。その象徴がそごう心斎橋本店売却であろう(再建のコンセプトをシニアエイジに設定し再度破綻した)。団塊世代は貧乏なのである。


今回の景気浮揚策が、いかにカンフル的位置づけだとしても、この団塊世代が退場し、初めて日本が経験する未知の消費者そのものの縮小に対して、なんのセンシティブも感じられないことである。


団塊世代は一線を退いてはいくが、貧乏なまま票田としては残っていく。選挙に勝ちたければ、団塊世代に対するきちっとした配慮ある対策をしなさい。もちろん労働の現役が優先されるべきであるが、
消費に一定程度貢献できる道筋をつけておかないと自民党は見放されるであろう。現にもうほとんど見放されているが。


後続世代は、つまらない世代論の妄言に惑わさて団塊世代叩きをして憂さ晴らししている余裕はないぞ。日本の未知の体験となる人口自体が右肩さがりになりつつ、デフレが追い討ちをかける時代に立ち向かう準備をすることだ。おまえたちが、いかに団塊世代という巨大マーケットの恩恵をこうむっていたかを知ったときには手遅れだということを忠告しておこう。


おっとまたずれた。
麻生政権の景気対策は見事に大企業だけに留まり、あいかわらず中小企業は難儀し、中間層の分解とエスタブリッシュメントの伸張に拍車がかかるだろう。