■俳句を小学5年生から教える−宇多喜代子さんに聴く

先日現代俳句協会会長の宇田喜代子さんにお眼にかかった。

宇多さんには、小生の大好きな作品がある。

  天皇の白髪にこそ夏の月

ときどきふと口をついて出てくる。
鑑賞の説明をすると句の佳さが損なわれるような気がしてくる。黙って何度か声に出して読むと、散文を超えた韻文のしみじみとした味を噛みしめることができるような作品である。

さて、お目にかかった際、宇多さんはさまざまなご自身の活動を話してくれた。
その中で興味深かったのは、来年度から小学五年生から俳句を教えることになるそうです、という話だった。
現在教科書会社とその原稿打ち合わせをされているとのこと。


小生がそれはすばらしいですねと言うと、宇多さんも嬉しそうにニッコリされて「やはり英語より、日本語でしょう。小さい頃に日本語喋れなくてどうするのよ。」
と言う。


現在高校でも短歌や俳句といった日本の伝統的な詩歌を教えなくなっている。


そして宇多さんはため息混じりに言う。
「ところがね、未だに芭蕉の『古池や蛙飛び込む水の音』でなきゃダメだっていうのよ。こんな俳句ちっとも佳いことないのにね、現代俳句でもっと佳い句がいくらでもあるじゃない、それを載せずに、『古池や』じゃないと先生方が俳句解っていないから教えられないんだって。」


小生も聴いて唖然としたものである。宇多さんの慨嘆もよく解る。
俳句の佳さを何とか後代の日本人に繋いでいきたいという情熱が伝わってくる話だった。


また、宇多さんは、もう団体や結社が、守りに入ってはいがみ合っている時代ではないと語るのだが、ご自身の活動における確かな姿勢は、後輩の小生などには小気味よく説得力がある。


「自分のよって立つ基盤さえ確保しておけば、何でもいいのよ。みんな一緒にやればいいのよ。」とあっけらかんと言う。
大いに共鳴する話だ。


そしてお願いした件には快諾していただいた。


その他戦争の頃の苦労話、南方の遺骨収集の話、今度NHKの番組取材でベトナムへ行かれる話、鈴木六林男の思い出、などなど二時間程喋り続けてくれた。


小生の拙い句集を手渡すと、その場でパラパラと見開いて、あるページにジッと眼を留めていた。いくらか読める句があったのだろうか?


次にお眼にかかるときには是非ご批評を伺いたいものである。