謹賀新年--無知が栄えたためしがない!自公政権の始まりに

年の瀬の実感もなく新年が明けて、何か新しい気持ちになれる環境があるかといえば以前より更に劣化し右傾化した自公政権で、新政権は庶民の不安をかきたてるようなことばかり言うから、新年そうそう気が休まらない。新政権の閣僚をみても、昔の名前ででています〜♪みたいなひとばかりだし、女性起用だといわれても妖怪にしか見えないのも女性にあるまじき過激な右翼思想のためか。
とにかく一昔前なら、このひとアホとちゃうかと言われるようなことを平気で公然と言い放つ政治家の無知がまかり通っている。

五木寛之が、「用心第一の年」といっている。
日本についても、政治についても、いろいろのことが言われていて、どれが本当なのか判断を迷うことばかりだと。

「時代の転換期は、雪崩のようなものだ。雪崩から身を守る知恵はあっても、雪崩を防止する方策はない。天災も、恐慌も、戦争も、「忘れたときにやってくる」のである。人がピリピリして警戒している時は、危機は訪れない。枕元に常備していた緊急バッグやヘルメットを片付けた頃に、危機はやってくるものである。

 経済も、健康も外交も、天災も、今年一年なんとか無事に乗りきれるよう、用心第一で過ごそうというのが私の年頭の自戒である。読者の皆様がたにも、良い年でありますように。
(「年頭特別エッセー」日刊ゲンダイ2013,1,1)


とても私の実感に近い。
特に思想的文脈を無視して、好き勝手に解釈して好き勝手に自己主張してかまわないという知識人の姿勢が、一定の権威をもっていた「知の在りよう」を崩壊させてしまった。従って庶民には鵜呑みにするか体感的判断に委ねるか、いずれにしても情緒的雰囲気への同調圧力ばかりが強まっている。

まるで「知」に対する悪意が「新しい意匠」だといわんばかりに。

もう一度、私たちが社会や政治を論ずるのはなぜか?と問わなければならない。
それは、動物が自然環境を生存の条件にしていると同様、社会や政治(人間の作り上げたもの)が人間の生存条件であるからである。
ただそれは自然界と同じように実在物としてシステム論や法理論や経済理論として語られるが、それは仮象であって、人間の幻想が生み出した共同観念であり、絶えず共同の合意によって刷新している観念体系なのである。

そこをよく理解しておかないと、なぜ社会のひとびとがいきなり意見が違うから殺してしまえとならずに、論議を尽くし、多数決で少数意見を尊重し取り込まねばならないという民主主義の手続きができたことも忘れ去られていく。
民主主義は逆に言えば、共同体成員が対等に等しく最適な環境で生存する条件を保証し合う制度であって、いまのところこの原理的な「根本合意」以上の観念と制度は他にない。

自民党公明党維新の会みんなの党の主張する政策は、こうした「根本合意」を忘れて、共同体の劣化と弱体化を図るような話が多すぎる。
どのような世界の歴史をみても、共同体内部の格差と抑圧が激しくなって栄えたためしはないのだ。

共同体が強固なのは、自分も他人も同じ人間だという共感をベースに、「対等である」という実感が他人を支える動機になっているのであって、対等にものを言う人間が多いほどいい知恵もでて、共同体の質を担保するのはいうまでもない。

もっともらしい政治家や知識人の言説も、このような「根本合意」の原理に引き当てて吟味すれば嘘か信か見抜くのもそれほど難しいことではない。

あれやこれやで迷ったら、今年はここに立ち返って考えるとしよう。