■柄谷行人「互酬制」が新たな時代のキーワードか

日本アカデミズムの悪癖のひとつに、新しい思想を次々に移入しては衣裳のように脱ぎ捨てていく。受容することで、それが日本社会の深部で定着し、それが社会変革へつながったり、新たな思想を生み出したりすることがない、といわれて久しい。

マルクスの思想も、ソ連崩壊により今ではなんとなく分が悪い。ソ連マルクスの思想を装っていたことは間違いないが、では本当にマルクスの思想に根拠を置いていたのかどうかの検証はそれほどなされないまま、「なんとなく」マルクスの思想を「全てが間違いだった」と廃棄してしまっているというのが、ポストモダン以降の情況だろう。

そんな中でも、マルクスの思想の正当に評価できる部分と、欠落部分を近代以降の思想の文脈の中で再検討しつつ、より豊かなきたるべき社会(共同体)のイメージを獲得しようと格闘してきた少数の思想家たちがいる。
柄谷行人もそのひとりである。

柄谷の新書版の『世界共和国へ』*1しかまだ読んでいないが、そこで提起されている「互酬制」という耳慣れない概念に戸惑いつつも、人類の営みのもつ豊穣なイメージにも可能性を感じ取った。それは柄谷が文芸批評家でもあるせいだろう、社会科学に削ぎ落とされない文学的な語感を伴った極めて人間活動の織り成す「生」のイメージを胚胎しているからである。

この「互酬制」というキーワードをもとに、わたしたちの現在の具体的社会からイメージをたぐりよせてみようという小論を西山賢一が書いていて、とても参考になった。学生などにも身近な例を使って説明しているので解り易い。下手に引用や抜粋は誤解を生んでもいけないので、ここに全文を掲出して世人の眼に触れ(版元さんお許しを)、以て柄谷の提起するメタ「X(エックス)」の社会構成体*2へのイメージを膨らませていただきたい。

西山賢一 「互酬制」が商品社会を支える
 大学生の就職率が近年最低になっていることが話題になっています。内定率の全国平均が2010年10月1日現在で57.6%の低さで、調査が始まった1966年以来、最低だとニュースで報じられています。学生たちの就職職活動を身近にみていると、状況の変化が伝わってきます。

大手の企業は採用人数を絞り込んで、欲しい人を厳選しています。そのために大企業をめぐつては、いくつも内定をとる少数の学生と、内定がとれない多くの学生たちが生まれます。これが内定率を下げているようです。

ところが求人数をみてみると、大企業を除けば就職希望者の数よりも多くの求人があります。こうした状況のもとに、数字ではわからない時代の大きな変化があるように感じています。そしてあくまでも大企業にこだわる従来型の学生たちと、新しい時代に適応しようとする学生たち。

振り返ってみると、大学の教員になってから今年で40年になります。そのあいだずっと学生たちの就職の様子をみてきました。そのなかで大きな変化を感じたのは、今回が初めてではありません。

いまから20年ほどの前の1990年代前後の頃から、就職先がホワイトカラーといわれたスタッフ部門から、ブルーカラーに関連したライン部門に広がってきたように感じていました。大学が大衆化して、頭脳労働といわれる分野から肉体労働といわれる分野に、仕事を求めざるを得なくなってきたのだろうか、と最初は考えていました。

 ところが成績の良い学生も、かつてブルーカラーといわれた営業やサービスの分野に行きだしたのです。どうもホワイトカラーとブルーカラーという分類そのものが古くなってきているらしい。

 職業分類の統計データを確かめてみると、アメリカやカナダでは日本よりひと足はやく、専門職に関わる人たちが増えてきて、一般事務、単純労働、サービス、管理職、セールスなどを越えて、割合でも成長スピードでも最大になっていることがわかりました。(これらは手工業と農業を加えると、職業分類の全体になります。)

 時代はいま高度資本主義社会を迎えて、商品社会が一段と進んでいます。なんとか売れる商品(財・サービス)を生み出さなくてはなりません。机上でホワイトカラーがプランを立てても太刀打ちできず、現場に肉体をさらしてそこでフルに頭を使うことが、売れる商品作りのために不可欠になっている。そしてこれをやるのがホワイトカラーかつブルーカラーとしての専門職です。

かつては医者や弁護士といった少数派しか専門職でなかったのが、資本主義が高度化するとともにサービスエンジニア、販売士、MR(医療情報担当者)、介護福祉士、等々といった新たな専門職がどんどん生まれてきています。

伝統的な農業や一般事務など、他の職業分類も専門職化している。これが20年ほど前から私が感じていた変化の仲身です。


 ところがいままた大きな変化が起きているらしい。大量生産から多品種少量生産の時代に移ってきて、多様な消費者をそれぞれ個別に満足させなくては、商品も売れなくなってきた。伝統的な経済学は「価格機構」に注目して、数学を駆使して理論的に価格を決めようとしますが、実際に消費者に買ってもらわなくては、その理論も絵に描いた餅でしかありません。

マルクスがいうように、商品は消費者に買ってもらうという「命がけの飛躍」をしなくてはならない。そしてそれを実際に実行するのは、商品を売る人たちです。そしてここでカギになるのはが「互酬制」というもので、それに気がついた若者たちは新たな歩みを始めているようだ、というのがこれから話してみたいポイントなのです。

 
 以前にゼミの学生たちに手伝ってもらい、食品リサイクルで作ったお米を生協の店頭で試験的に売ったことがありました。仕組みを説明しながら試食をしてもらいます。興味をもった消費者が実際に買ってくれたとき、学生たちは感激したものでした。

買った人からの感謝と支援の言葉を受けると、感激は頂点に達します。そこで商品交換が実行され、消費者はお金を出して買い、学生はお金を受け取ります。しかし学生たちが感激したのは、代金を手にしたことに加えて、自分の働きかけで売ることができて、しかも感謝の言葉を得ることができたためです。

 医療や福祉に携わっている専門職たちも、もちろん対価を得るために仕事をしますが、それだけでは十全な満足感は得られず、患者や家族から信頼され、感謝されることで仕事のやりがいを感じています。他に行くところがなくてしかたなく福祉の仕事についた若者が、相手から感謝されるという体験をしたことで一気に仕事のおもしろさに目覚めて、一人前なっていくという話も聞きます。

他方でいくら対価が補償されていても、そうした無形の「報酬」がないようだと、やりがいを持てないために仕事を辞めることになってしまいます。お金との交換で仕事をしながら、感謝とやりがいの交換が仕事を支えていくらしい。ここには二つの交換が並行して進んでいる。


 現場でのそうした確かな実感を理論づけるのも、経済学の大事な役割のはずです。いまの倫理の世界とのつながりを模索する動きが、経済学にも生まれています。柄谷行人が『世界史の構造』(岩波書店、2010年)のなかで主張している交換に注目した議論も、こうした模索につながっています。

柄谷は現代の世界の構造の特徴を「資本=ネーション=国家」としてとらえています。そのもとには、社会を構成する基礎的構造を三つの交換からなるものとする基本枠組みがあります。


 マルクス史的唯物論は経済的な交換が社会の下部構造を形成し、その上に政治や文化やイデオロギーなどの上部構造が形成される、と解釈されてきました。柄谷はこれを生産活動のみに注目した一面的なとらえ方であり、交換に注目することでより確かな社会のとらえ方が可能になる、と主張します。

そして世界史の展開のなかで、贈与と返礼の互酬制という交換、国家による租税と再配分の交換、商品交換の三つが重要な役割をはたしてきたと考えるのです。ここでは互酬制と商品交換に注目しましょう。

 商品交換が世界を覆っているかにみえる今でも、人類史の中で生まれた互酬制の関係がしっかりと根を張っている。貨幣を媒介にした商品交換と並行して、贈与と返礼の互酬制が大きな役割を果たしている。そう考えると、私たちが仕事の場や買い物の場で確かに感じている感謝とやりがいの交換が、世界史の流れにつながる深いものであることが納得できそうです。

 さらにこの先の世界を考えるとき、従来のしがらみを含んだ互酬制を否定しながらしかも、高次元で互酬制を回復することこそが、第四の交換だという柄谷の主張は新鮮にひびいてきます。互酬制を正面から見直すとき、商品交換の世界にも新しい時代が生まれてくるような気がしています。

もちろんその流れが、少ない報酬でたくさんの仕事をさせるような方向につながっては困りますが。(了)
出典:『Niche』no.26批評社

*1:後に刊行された『世界史の構造』(岩波書店)が主著となっている。

*2:柄谷は高度資本主義の次の社会構成体を、社会主義だとか共産主義だとか手垢にまみれたネーミングは誤解をうむので、あくまで概念の確定だけして名称は「X」とすると述べている